庄内・鶴岡市に藤沢周平作品の場所を訪ねて・その②  へ

五間川・鶴ケ岡城址を散策したのち郊外の藤沢周平の生家跡地などを回ります。作者の実生活を知る事は小説を読むときいらざる雑音に感じる気がしていま一つ気が乗りません。それでも全ての本を読んでしまい残されていたのは『藤沢周平のすべて(文春文庫)ただ一つと言う事になってしましました。

一つ位は読まない本を残しておきたいと思いずっと手を付けづに居たのですがとうとう我慢が出来ず購入してしまいました。小菅先生と慕われた教員生活、数度にわたる肺結核の手術、夢中で読ませる内容でした。知りたくないと躊躇していたそれらのおおよそを知ってしまいました。ボラインテイアのガイドさんが親切に案内していただくお気持ちに引っ張られて生誕の地を訪れました。

鶴岡市郊外の生家跡への訪問もあたらずさわらずの気分で、作者の生活の痕跡を訪れてみることにしました。それにつけても、どうあがいても新規の作品がないと思いきるのは大変さびしいものです、繰り返し読む以外私に残された道はありません。2009.09.28

他の藤沢作品の舞台への旅
『密謀』をポケットに:1980~81年の新聞連載・当時の会津の太守・上杉景勝、直江兼続の物語
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深川を訪ねる:沢山の物語の舞台となった隅田川と深川、小名木川・万年橋が特に多い。
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湯田川中学校(現・湯田川小学校)
上の写真が現在は小学校となっている旧湯田川中学です。教員室と思われるあたりに人の話し声、今でも子供達と教員達との語り合いが続いているのだと安堵しました。

昭和24年・1949年山形師範学校を卒業、22歳。同年4月、山形県西田川郡湯田川中学に赴任する。1951年肺結核となり休職、後退職。この僅かな期間の教員生活で、小菅先生として接した生徒達との後年の再会と集いはあたかも藤沢周平の創作する物語のように感じました。教えた方も幸せなら、教えられた方もさぞかし幸せで誇らしかった事でしょう。勝手に忖度すれば藤沢周平の記念碑であり、これを建てた教え子達の人生の記念碑でもあるように思いました。

藤沢周平のペン・ネームは若い時代に深い関わりのあった藤沢集落名に由来します。ガイドの方が345号線から左折を指示、そこに藤沢の地名表示を見てはっと気がついたのです。

固辞する藤沢周平を説き伏せて平成6年に教え子達が建てた建てた本の形の記念碑です。クリック

 

上の写真は学校の前から湯田川温泉や藤沢集落方面を望んだものです。藤沢周平がこの道を通って暮らしていたのだとしばし眺めていました。温泉街も掌に入るほどの大きさです、それだけに風景がしっくりと馴染んでけばけばしさが感じられません。湯田川温泉に向かいます。

『隠し剣秋風抄』「盲目剣谺返し」では、盲目となった三村新之丞の妻・加世が海坂城下から一里の林松寺の不動尊に祈願に出かけます。それは湯田川温泉近く藤沢集落にある藤沢不動尊と思われると朝日新聞社発行の「藤沢周平の世界」で記しています。
上役である近習組頭・島村藤弥に家の存続を願って加世は身を任せる。その染川町での密会が他人にも見られ新之丞も知り、盲目ながら五間川で島村を討ちはたす。無意識に使った剣を新之丞はーあるいは、あれがこだまがえしかーと思うのです。

湯田川温泉

藤沢周平が教師として過ごした湯田川中学のすぐ近くにこのような静かな温泉街があります。

静かな通りで温泉街ではお馴染みの喧噪・けばけばしさが見られません。あたりの景色のなかにすっと溶け込んでいます。時間が止まったような空間に見えました。次回、機会があればこのような町で一夜を過ごしてみたいと思いました。

 

温泉街の外れにある『由豆佐売神社(ゆずさめじんじゃ) 』を案内してもらいまいた。県指定天然記念物の乳イチョウ(瘤となって垂れています)の巨木が 参道右手の空を覆っています。

木々で覆われた参道を登りきった社殿の前の広場が映画『たそがれ清兵衛』の撮影場所だそうです。祭りの獅子舞の情景をすぐ思い出しました。母を失い、貧しい生活、楽しみ少ない二人の清兵衛の子供達の楽しそうな笑顔、上の出演記念板に写る人々は全て地元の方々だそうです。

民田(現在も同名)

民田(みんで)は鶴岡市郊外、一見すると農地がかなりの面積を占めているようです。この地の丸っこい茄子は民田茄子と呼ばれているようです。

ここは藤沢周平の生誕地に近く時折小茄子の漬物が物語に登場しますがどうもこの茄子なのかもしれません。長くて大きな茄子は目にしますが、ころっと丸く小型のこのような茄子はあまり目にしなくなりました。

この茄子が『ただ一撃(文春文庫・「暗殺の年輪」に収録)に登場して物語をいかにもありそうな話にしています。鶴ケ岡城二の丸、馬見所前広場、藩主・忠勝臨席の剣術試合で清家猪十郎に藩士が負け続け怒気を含んで試合の続行を命じる。兵法指南役・菅沼加賀に再試合を命じる。家老・松平甚三郎が刈谷範兵衛を推挙する。

隠居の範兵衛は嫁の三緒と小茄子の漬物で茶を飲む。歯の欠けた範兵衛が口の中で小茄子を回しながら噛むたびにその表情が可笑しいと三緒がくすくすと笑うのです。ー鶴岡城下から三十丁、民田で栽培される茄子は小ぶりで味が良いー、藤沢周平は植え付け・花の色、漬物の方法まで6行にもわたって生き生きと書いています。私は舅と嫁の微笑ましい情景と作者がこれほどまでに書く茄子に大変興味を持ちました。それがこの民田の小茄子なのです。

『ただ一撃』の三緒も多くの藤沢作品の娘達の一人です。『時雨のあと(新潮文庫)の中の大好きな「鱗雲」の利穂といい雪江といいけなげで背筋をぴんと張って、そして可憐に生きています。共に侍の家の女達です。

藤沢周平の生誕地

①茄子の民田(みんで)から僅かで青龍川を渡ると高坂字楯(たて)下、藤沢周平の生まれた場所です。車を四ツ角に留めて集落の中に入って行きました。

②集落の道です。どこにでもある集落のたたずまい。昼間は人通りが絶えてひっそりと静まり返っていました。床屋さんの回る看板だけが場違いな感じです。

②の道端に看板が建っていました。此処を右に折れて集落の細い道に入ります。空き地にこのような石碑が建っています。藤沢周平が望むと望まざるとに関わらす地元の人々が自らの誇らしげな気持ちを込めたものに思えます。

この前でボランテイア・ガイドの方にお話をうかがっていると、集落の奥から足を引きずるようにして男の人が歩いてきました。村の家々の事情に詳しいように見えましたので、私は内容が聞こえない場所に移動しました。畑から出てきたというような風情、どこからと聞きます。そんな遠くからと話しかけるその言葉は風貌から想像も出来ない柔らかな庄内弁です。緩やかなリズムと抑えたまろやかな声音でした。

藤沢周平も此処ではこのような言葉遣いであったのだろうと思ったのです。

【玄鳥(文春文庫)】中、大好きな『三月の鮠』の物語は藤沢周平が生まれた高坂が舞台だそうです。宗岡新田はこの高坂をイメージして書かれたのです。青龍寺川が作品中の平田川になるでしょうか。海坂藩・柘植道場を代表する剣士・窪井信次郎は藩主臨席の試合で有利の下馬評にもかかわらず、岩上勝之進に三本連取され惨めな敗北。平田川(青龍寺川)を遡り上流の宗岡新田あたりまで釣りをする毎日を送る。

集落の社で、岩上勝之進に家族全員を惨殺された葉津と言う巫女にめぐり合います。春の清流を泳ぎ登る鮠のような娘との会話で窪井信次郎は、人々の期待を裏切って惨めに敗北した心の鬱屈から立ち直るのです。

葉津は、青い槇の生け垣の精、少しもおくしたところのない澄んだ目の娘と書かれています。再会の折りの情景ではー身じろぎもせず、葉津は信次郎を見ている。その姿は紅葉する木木の中で、春先に見た鮠のようにりりしく見えたが、信次郎が近づくと、その目に盛り上がる涙が見えた。-と書かれています。

藤沢作品鶴岡市内の場所

藤沢作品の庄内での物語は、【春秋山伏記】など一部の作品を除いて殆どが侍が主人公です。侍達は多くが鶴ケ岡城をそして五間川が流れる城下を生活の場としています。物語の多くでは鶴岡の城と川がその背景として私達読者に語られます。『暗殺の年輪』の中で海坂藩の町を語っています。

『丘というには幅が膨大な台地が、町の西方にひろがっていて、その緩慢な傾斜の途中が足軽屋敷が密集している町に入り、そこから七万石海坂藩の城下町がひろがっている。城は、町の真中を貫いて流れる五間川の西岸にあって、美しい五層の天守閣が町の四方から眺められる。』

碌高13万8千石(実収21万石)の比較的豊かな海坂藩(庄内藩)の物語は春の桜から始まり冬の雪までの1年の四季おりおりを織り込んで私達を楽しませてくれます。

①海坂藩城下・五間川と深川・五間堀(番号をクリックすると説明が出てきます)
 読者である私の想像する楽しみではあるのですが、海坂藩城下を貫通する内川を「五間川」と呼んだのは深川との関連があるのではないのかなどと想像を膨らませています。藤沢作品の殆どの舞台は、侍の物語は鶴岡、市井の人々の物語は江戸・深川です。何かで読んだ記憶が残っているのですが(記憶違いかもしれません)、業界紙の社員の頃深川を頻りに訪れて居たと言うのです。

深川での物語は大川に流れ込む小名木川・竪川、それをつなぐ六間堀と五間堀。そこには藤沢作品に登場する市井の人々の暮らす江戸の町が広がっていたのです。五間掘りのへの字の曲りは内川の曲りを思い出させてくれます。そして行き止まりの五間掘りは猿子橋・御籾蔵・御舟蔵で知られた六間掘りより有名ではないので読者に連想されにくいかもしれません。語呂も川を付けたら五間の方がなぜか馴染みます。

②たしか藤沢周平は森川でへの字を描いて行き止まりとなる五間掘りあたりを度々訪れたか、熟知していたと記憶しています。
 いまでも五間掘りの「への字」の跡は道路に鮮やかに描かれています。後に「彫師伊之助捕物覚え(新潮文庫)」で伊之助が働く「彫藤」は主な舞台の一つですが「五間堀」に沿った三間町にあるのです。私の推理はこの「五間掘」が「五間川」を生み出す一つのヒントになったのではなかろうかと言う想像ーとんでもない勘違いかもしれないと思いながらもーを楽しんでいるのです。藤沢周平は【闇の穴】中「川の辺」で五間川について『実際の川幅は市中で七,八間(それなら七間か八間川となるでしょうが)』と述べているので実際の川幅からだとすると少し無理がありそうです。唯、五間川などと言う名前はどこにでも有りそうな名前でもあります、藤沢作品に出てくるからこれほど気になるのかもしれません。このような空想を楽しむ事は読者に許された特権とお許しください。写真は深川七福神・深川神明宮(寿老人)六間堀町会の石碑・このすぐ先で五間掘りは東に曲るのです。

自分が物語を読む時の参考に、物語の一部と場所の表を作成してみました。申せば、場所を特定することが私にとってそれほど重要でもなくまして目的でもないのです。物語の面白さに根本的な影響を与えるものではありません。とは言ってもそうではなかろうかとその舞台を想像することは、作者と一時共通の経験を味わったような錯覚をいだかせるのです。それは作品を読む私に更なる豊かなプレゼント与えてくれる事になります。鶴岡はたった一度だけの訪問ですので間違いがあるかもしれない事をご理解ください。

 
  地図参照
03/18/2015
主な場所
要点
【霧の朝】中「泣く母」・新潮文庫
五間川 伊庭小四郎は幼き頃寡婦となって家を出た母・美尾に抱かれて頬にその涙を感じます。異母弟の矢口八之丞に代り、五間川の川岸で森雄之助との決闘の場に出向き相打ちとなり大怪我をして暖かい母の膝に抱かれています。いい匂いがした、それは母の匂いでした。母は八之丞の為ですねと言います。いや、違います、母上の為ですと心の中で呟きますが母上と言う言葉が口から出てこないのです。
【隠し剣秋風抄】・文春文庫中の短編
①「汚名剣双燕」
染川町

八田康之助は城中で人を切った友人香西伝八郎をその妻由利を思って取り逃がし拭い難い臆病者の汚名を着る。その由利は、染川町一番の芸者が思われ人と噂の放蕩者の関光弥と懇ろになる。

 

②「女難剣雷切り」
五間川・染川町 風采の上がらない三十六歳の佐治惣六は城中でも目立たない男であった。10年前五間川岸にあるもみじ屋に泊まる二人組みの浪人が城下の富商に強盗に入る。惣六は一瞬の間に二人を切り倒して賞賛をあびるがやがて忘れ去られる。染川町の飲み屋で妻・嘉乃の不貞を知らされる。
③「陽狂剣かげろう」
五間川 許嫁の乙江が藩主の若殿のそばに召されることになった佐橋半之丞は狂人のふりをして乙江を諦めさせようとする。そして五間川上流の原野で乙江に別れを告げる。後日上の者に乙江を召されるよう話した金丸徳之助を切る。
④「偏屈剣蟇ノ舌」
五間川・染川町 偏屈者の馬飼庄蔵は、染川町の料理茶屋・小花の離れ座敷に遠藤久米次に酒に誘われる。植村が五間川傍の神部道場で馬飼の好敵手今泉と試合をして分けたと唆されてやがて大目付・植村弥吉郎を切る事になる。
⑤「好色剣流水」
染川町・五間川 若いころは剣の使い手で美男子の誉れが高い三谷助十郎は10年前に離縁した鹿乃と染川町の料理屋・あかね屋でよりを戻そうと会う。傘を貸した服部弥惣右エ門の妻女・迪と五間川で抱き合う。後日噂となり服部と五間川で立会いたおされる。
⑥「孤立剣残月」
五間川 小鹿七兵衛は五間川の上流で理不尽な逆恨みから鵜飼半十郎と果たし合い、妻・高江の助けを得て秘剣・残月で討ちはたす。
【隠し剣孤影抄】・文春文庫中の短編
①「邪剣竜尾返し」
五間川柳の馬場 檜山弦之助は赤倉不動のお籠りで赤沢弥伝次の企みで妻に誘われてむつみあう。試合を受けさざるをえなくなる。五間川岸の柳の馬場で邪剣竜尾返しで赤沢を倒す。
②「臆病剣松風」
鶴ケ岡城 海坂藩家老柘植増之助の命で瓜生新兵衛は世子・和泉之守の身を影警護する。海坂藩城中で秘剣・松風を使い襲ってきた中老・柳田造酒之丞を切り捨てる。
③「暗殺剣虎の眼」
鶴ケ岡城・五間川 海坂藩の藩中は農政をめぐり激論、志野の父・牧余市右衛門は藩主・右京太夫の江戸藩邸の遊興の費用を批判。逆鱗に触れ帰路上意討ちされる。後日志野は夫・兼光周助が五間川で子供が放った矢を素手で掴んだ事を思い出して茫然と立ち尽くす。
④「必死剣鳥刺し」
鶴ケ岡城 兼見三左エ門は政治好きな藩主・右京太夫の愛妾を城中で刺殺する。後日近習頭取としてとりたてられ藩主の傍に使えるが顔も見たくないと避けられる。藩主を守って帯屋隼人正を切るも罠にはまり切り刻まれる。最後に津田民部を鳥刺しの秘剣で刺した後死ぬ。
⑤「隠し剣鬼ノ爪」
屏風嶽山中とち沢・鶴ケ岡城 海坂藩城下から11里のとち沢に押し込められた狭間弥市郎が牢破り片桐宗蔵が取り押さえを命じられる。弥市郎の美しい妻が宗蔵を訪ねて体を引き換えに見逃せと迫る、更に上司の堀直弥を訪ねて弄ばれ自害。宗蔵は弥市郎を討ちはたした後城中で秘剣・鬼の爪を使い堀直弥を刺殺する。
⑥「女人剣さざ波」
染川町・五間川 浅見俊之助は家老筒井兵左衛門から藩庫から2000両が紛失した張本人・本堂修理を染川町で見張るよう命じられる。松葉屋出入りの芸者おもんと逢瀬を続けながら探索する。近習組・遠山左門から五間川での果たし合いを申し込まれる。妻・邦江は剣に自信のない俊之助に代り無断で左門と立会い秘剣・さざ波で討ちはたす。
⑦「宿命剣鬼走り」
五間川柳の馬場 小関十太夫の息子・鶴之丞は伊部帯刀の倅・伝七郎と五間川で果たしいをする。伝七郎側の助勢の者二人を倒して鶴之丞は切られて死ぬ。長兄のあとを継いだ千満太も侮蔑した伝七郎を切って切腹。十太夫は五間川柳の馬場で帯刀と果しい、秘剣鬼走りで倒した後切腹。
【義民が駆ける】講談社文庫
庄内藩全域

天保11年(1840)水野忠邦が主導して発令した三方国替えにより庄内藩は碌高が半減、長岡への転封されることになる。江戸では留守居役の大山正大夫を中心盛んな外交を繰り広げる。

庄内の農民たちは移ってくる川越藩の苛烈な年貢をおそれ、領内各地で打ち寄せを開き気勢をあげる。イナゴの群れのごとく江戸に駕籠訴を行う。庄内が農民から武士、商人が一丸となって藩主・忠器(ただかた)のお座りを画する。広範囲にうねりのように突き動かされて動くこれらの人々の一人ひとりを有りそうな話として描き分けた物語。鶴岡を中心とした庄内の各地が物語の場所となっています。

【闇の穴】中「小川の辺」新潮文庫
五間川と支流・天神川

五間川の桜が散った頃、犬井朔之助は藩主に諫言して脱藩した作間森衛と妹で妻の田鶴の討手を命じられる。幼い頃から兄弟のように育った若党・新蔵が同行を願う。

幼き頃五間川支流の天神川で強情な田鶴は増水に流されそうになった時新蔵の手にすがって助けられた事がある。

【回天の門】・文春文庫
鶴ケ岡城下

清川八郎を題材にした歴史小説ですので海坂藩の地名は出てきません。10歳で鶴ケ岡城下の手習い所や学塾に通い3年間を過ごす。破門されて家に戻ったのち弘化4年(1847)斉藤元司(後の清川八郎)は鶴ケ岡城下の師・細田安右エ門を訪ね江戸への同行を依頼する。細田の江戸行きが中止となり待ちぼうけを喰った元司は一人江戸へ出奔する。

安政6年(1859)江戸の千葉道場で修行した清川八郎は鶴ケ岡に戻り酒井七五三助道場で試合を行う。僅かに早く生まれすぎた天才は幾度か鶴ケ岡にその足跡を残しています。その事を知るだけでこの長大な物語に現実味を与えてくれるのです。

天保義民を題材とした【義民が駆ける】では庄内藩の外交官として辣腕を振るった大山正大夫が、その後藩の中心から遠ざけられて留守居役となって清川八郎と会っている場面が出てきて大変興味をそそられました。江戸・湯島聖堂で感じた清川八郎への親近感が鶴ケ岡城下の町を訪れたことで更に深まった気がします。

【静かな】中「岡安家の犬」・新潮文庫
五間川・鶴ケ岡城三の丸

近習組の岡安甚之丞は道場仲間と五間川の河原で野良犬を食べた事がある。愛犬のアカが妹・八寿の許婚・野地金之助と仲間の悪ふざけで知らずに一緒に食べる羽目になる。後日三の丸で岡安兵蔵から金之助がアカの代りを探している事を知らされる。

八寿は初めて野地金之助の人柄に触れたような気になる。ーアカが帰ってきた。八寿は思いがけなく涙があふれてくる。

【秘太刀馬の骨】中「秘太刀馬の骨」・文春文庫
千鳥橋(現・大泉橋)・五間川・染川町

海坂藩の内紛が絡んで近習組頭・浅沼半十郎は江戸から来た石橋銀次郎と共に秘太刀・馬の骨の継承者を探索する。継承されたと思われる矢野道場の門弟を訪ねて立ち合いを続ける。

五間川下流・杉沢新田の堤防の修復を差配する内藤半左衛門の醜聞を、銀次郎は染川町で杵七に酒を飲ませて語らせる。半左衛門は五間川上流の馬場で銀次郎と立ち合う。

長坂権平は旧碌を戻すよう小出帯刀が尽力することで五間川の馬場で銀次郎と立ち合う。寡婦となった美しい兄嫁の家を訪ねる北爪平八郎の姿をあやめ橋(現・千歳橋か,三雪橋では遠すぎる気がする)をわたりしばらく北に歩いた千鳥橋(現・大泉橋)近くの商家で見る。

矢野藤蔵が五間川の千鳥橋で秘太刀を使って赤松を屠ふる。

   

藤沢周平の物語の町鶴岡市を訪ねて①②はいったん終わらせていただきます。初めて訪れた町でいきなり五間川を目にして地に足がつきませんでした。親切なボランテイア・ガイドの方は出来るだけ多く見せようと努めてくれたので雲の上を歩んでいるが如き感覚でした。

酒井家が幕末まで統治したこと、酒田と合わせた経済力、それが培った文化、日本の良かった時代の町がここに残っているように感じたのです。町の暮らしに加えて月山があり、湯殿山があり、羽黒山もあるのです。おおよそ陳腐な観光化をなんとか逃れた自然と町の暮らしーそれこそ見てみたいと思う人は少なくないと思うのですがーを目にする事が出来ます。

小京都・小江戸などとーそれなら本物の京都へ、江戸へと足を向けますー矮小化した町として売り出す必要がない奥深い町に思えました。聞けば、映画『おくりびと』の舞台になった風呂屋さんは鶴岡にあるそうです。日本の良い町に映画の人々が目を付けて撮影に多く来ると聞きました。冬が過ぎ春が来て、月山の残雪が未だ消えない時、再度訪れて藤沢周平の物語の場所を訪ねてみるつもりでおります。

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