谷中七福神・
そのB東京国立博物館〜日暮里
2007年12月3日・小雨。小雨の中人通りの少ない公園内の落ち葉を踏んで日暮里に向かう。雨の中、坂を上り下り、墓地を大回りして鶯谷駅に出る。更に新坂を下って日暮里まで足を伸ばす。小さな店や駄菓子問屋が立ち並ぶ路地が再開発の為に取り壊されて大きなビルが建ちだしている。懐かしい日暮里は跡形もなくなっています。結局今回の七福神は二つを回って終わる。移動が今まで車ばかりでしたので、七福神の多くが日暮里駅から田端駅よりにある事を知りませんでした。12月4日、天候が晴れて暖かい日和となる。七福神の続きを回る、それはC以降に掲載されています。
2007.12.03
Q寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)
寛永年間(1625年頃)の建立。落ち着いた黒の色から別名”黒門”。本来は現在の東京国立博物館の正門の位置にあったもの。本坊(寺僧の住居する坊)は上野戦争で全焼し門だけ残る。
Q黒門には多数の当時の銃痕が残る。彰義隊と新政府軍との激しい戦いの跡。
国立博物館とQ黒門の間にある東叡山寛永寺開山堂(両大師):寛永寺を開山した天海僧正の像を安置する堂として1644年に建立。”両大師”とも呼ばれている。
両大師橋からJR上野駅を望む。進行方向は東京駅方面。左して橋を下りると昭和通から銀座・新橋方面。
R殉死者の墓:
1651年5月三代将軍徳川家光が死去、その後を追って家光の家臣4名が殉死。さらにその家臣や家族が後を追って殉死した。ここに徳川家光の家臣四名と、その家臣八名の墓がある。家光の殉死から12年後の1663年幕府は殉死を禁止、その後はほぼ見られなくなった。博物館の裏を通り徳川家綱霊廟勅額門へ向かう。落ち葉の道。
S徳川家綱霊廟勅額門
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家光の後の四代将軍家綱は、1645年4月父・家光の死によって僅か10歳で将軍職を継ぐ。1680年39歳で没する。病弱であったら家綱時代の政務は主として重臣団にまかされていたが、特にその中でも酒井忠清が有名。時世中には由井正雪の乱が起こる。この門は解体・消失を見るが一部は当時のままである。(門の説明版より抜粋)
寛永寺の墓地を回りこみながら鶯谷駅へ、新坂を下る。この坂は明治時代に出来た新しい坂、鶯坂とも根岸坂とも言われるそうです。坂を下りるとガード下、人の行きかいと温もりが感じられます。下りきると言問い通りに出ます。
江戸時代から続く豆腐料理の”笹の雪”、月曜日は定休日です。尾久橋通りを日暮里に向かう。
羽二重団子:此処緩やかな芋坂にある”藤の木茶屋”として発祥、江戸時代から続く団子屋さん。しっとりとした餅の舌触りが特徴です。団子の看板に子規の句が添えられている”芋坂も団子も月のゆかりかな”。店の角に王子街道の道標。
日暮里繊維街:布地等衣料関係の素材の店が立ち並ぶ街。日暮里駅から5分ほど。今は手芸用品の町として知られています。
7/5/2008
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