深川七福神とその界隈・そのB

深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。尚、関の細道のB追分の明神は現在製作中ですのでリンクは動いておりません。

このウエッブ・サイトでは、”村を歩く”の中で、暮す村の近くに関連する”奥の細道をたどる”を掲載しています。

田村神社十念寺相良等窮かげ沼乙字ケ滝

関の城下町追分の明神白河の関境の明神遊行柳殺生石二宿の地

万年橋北側の地図です。時代小説と芭蕉愛好の方の参考に供すればと概略図を作ってみました(深川七福神の全体地図はこちら)。勿論金兵衛長屋と宮戸川は”居眠り磐音”に登場する架空のものです。位置関係をご理解いただくと物語を読む楽しみも増すことでしょう。下の大川の写真の中での立体的位置関係もご参照下さい。芭蕉の記事についてはこのページに記載しきれません。深川七福神とその界隈・そのCとして近日中に掲載致します。

小名木川に掛かる万年橋のアーチ型の鉄橋が見えてきました。最も来てみたかった場所の一つです。緩やかな坂になっている橋の上に立つと突然視界が開けました。北斎が“富岳三十六景深川万年橋下”で、広重は“名所江戸百景深川万年橋”等で錦絵にも描かれた景勝の地です。非常に広い隅田川です、遊覧船は右に浅草を目指して遡っていきます。左に清洲橋。七福神最後の7番目・深川神明宮(寿老人)を目指します。

小名木川が隅田川と合流する地点の右岸は芭蕉の旧宅があった所です。丸くなった部分の辺りです。つまりこの景色はかって芭蕉が見たものです。低い江戸の家並みがビルに変わっていますが、私たち人間も江戸代からは当然変化しています。見る目さえあれば、感じる心さえ十分に柔軟ならば同じ感動を得ていることになります。表現が出来ないのは止むを得ません。左の写真は芭蕉の旧宅辺りから小名木川に掛かる万年橋を見ています。この左上に芭蕉の旧宅がありました。

万年橋は藤沢周平の短編集”はし物語”の中で、大変印象深い”約束”の舞台です。5年後の再会を約した幼馴染のお蝶と幸助、お蝶は家の為に体を売らなくてはならない境遇に落ちました。お蝶には5年後の再会だけが生きる希望、飛んで行きたい・でも行けないと迷う心根がなんとも清々しいものです。

更に時代小説好きな方には”居眠り磐音”の金兵衛長屋がここから200メートル程の場所になります。もっともこれはフィクションですので実際にあったわけではありません。磐音が、おこんがこの橋を渡ったと想像して見てください、物語が大きく膨らんでくるでしょう。此処はまさに富士山と隅田川が貧しい長屋の人々の上にも等しく風景として与えられた場所。万年橋は幾つもの物語を持った得がたい橋なのです。2008.2.4一部2008.2.12

川船番所跡(現在住所:常盤1−1付近)

川船番所は、幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありませんが、正保四年(1647)に深川番の任命が行なわれていることから、この頃のことと考えられます。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624〜44)には既に整い関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ五本ずつ装備されていました。明暦三年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。江東区教育委員会による万年橋際の説明板より抜粋

江戸時代の万年橋はこの地より30メートルほど下流にあったそうです。橋の傍の地元の方に伺いました。

その説明が素晴らしいものでした。赤穂浪士が討ち入り後、この前の道を通ったと言うのです。川向こうは登城に差しさわりがあるのでとも言うのです。なんとも嬉しい話を聞きました。まるで昨日、赤穂浪士一統の隊列を見たような話しっぷりです。

”居眠り磐音江戸草紙”の金兵衛長屋の想像写真です。隅田川を新大橋(江戸時代の)で渡ってきた磐音はDCの看板のあるビル(御籾蔵)の角を左に曲がって300メートルほど進みます。そこで六間堀にあたります。そこがお訪ねの金兵衛長屋です、磐音は朝風呂でしょうか。長屋は隅田川のすぐ近くにありました。上流には両国橋、下流には清洲橋があります。私が現地の地形から判断した想像ですので間違っているかもしれませんが(もう一つ下流のビルかもしれません)、その差はそれほど大きくないと思います。写真は現在の新大橋(つまり上流)から撮影したものです。
万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋きれた年代は明らかではありませんか、延宝八年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので・この頃にはすでに架けられていた事がわかります。

江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1666〜1673)の頃に中川口へ移されこのため「元番所のはし」とも呼ばれました。

小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けらていました。万年橋も虹型をした優雅な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで'「深川万年橋」としてとりあげています。また「葛飾北斎は富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。橋際の説明板より抜粋

橋の袂にあった説明板から北斎の”富嶽三十六景・万年橋下”を撮影したものです。かなり汚れていましたので修正してあります。

 更に六間堀の痕跡を探して高橋方面に進むが目ぼしいものは無い。   万年橋から小名木川岸を高橋方面へ歩く。最初に水門があります。
万年橋を北に向かって森下方面に超えると芭蕉の旧居が左側にあります。その途中に芭蕉を祭る芭蕉稲荷があります(これも旧宅跡の一つと言われいます)。多くの奉納された旗が、江戸の昔の俳人の威徳を慕う人々の思いを表しています。右の図は万年橋際の”古池や・・”の説明版を撮影したものです。 桜の咲くころにもう一度来て見たくなりました。川岸の桜並木のつぼみが大きく膨らんでいます。おおよその見当はついても今回の旅では万年橋付近の六間掘りを探すことは叶いませんでした。ご興味の有る方は地図のボタンを押してください。常盤一交差点で並行して斜めに北上する道があります。このどちらか、又は両方の間が六間堀だと思います。
正木稲荷由来 為永春水著”梅暦”の挿絵にも描かれ天保五年(1834)の年号が見られる。文久二年(1862)の江戸切絵図”本所深川絵図”に”まさきいなり”と記載されています。江戸名所絵図には”真先稲荷神社”として著名な稲荷社の一つに記載されている。昔は隅田川から小名木川に入る目印となる柾木の大木があり正木稲荷はそれに由来する。

柾木の葉は子供が丸めピーピーと鳴らして遊んだり、腫れ物に効くとも言われていた。腫れ物に悩む間蕎麦をたって、快癒すると蕎麦を献上する信仰があった。

小名木川の水路は行徳から塩を運ぶ最短路として天正十八年(1590)水路が開削された。寛永六年(1629)現在の川幅に広げられ、当稲荷の隣に船番所が設けられた。寛文元年(1661)大島九丁目の小名木川と中川の交差する地点に明治維新まで置かれた。

又、当初の近くに芭蕉庵あって大正10年11月東京府が芭蕉翁古池の跡として旧跡に指定した。昭和56年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。昔より当稲荷は町内持(維持経営)である。説明板より抜粋

(上)に稲荷横の大きな石碑の説明より由来を抜粋しました。そこに町内持と書いた地元の人々の意気が良いと思いました。稲荷の近くの人に聞いたら、正木稲荷の前の道を通って赤穂浪士達が万年橋を渡ったそうです。本来の橋はこの道の先にあったとの事、昔の道や橋の狭さを改めて知らされました。史実は不明ですが(ちなみに本所松坂町はほぼ隣町です)、大変楽しい話を聞かせて貰いました。
万年橋際に立つ芭蕉旧居跡と芭蕉記念館の案内板。矢印に従って左に曲がります。直進して右折した辺りが金兵衛長屋です。
この稲荷は、現在の万年橋と芭蕉の旧宅との間に挟まれています。これが旧万年橋への道、赤穂浪士が通ったと聞いた道です。  六間堀は既に埋まってしまって痕跡が残っていません。2筋の道が森下方面に伸びて曲がっています。これが多分そうでしょう。”居眠り磐音”で金兵衛長屋に見立てられたあたりだと思います。これは私の推測で確かではありません、それでもほぼこの近くです。磐音が、おこんが息づいていた街です。
高橋(たかばし)際の古いドジョウ屋”伊せ喜”です。私は残念ながら噂だけで食べたことがありません。浅草駒形橋の近くの店に行っていますが、バスで乗り付ける団体客が多くなってドジョウには暫く行っていません。ネギをたっぷり鉄鍋で煮て食べるドジョウ鍋は全国的な食べ物なのでしょうか。今まで、高橋はかなり遠い気がしていました、来て見ると地下鉄なら近いことが分かりました。〒135-0005 東京都江東区高橋2-5Tel.03-3631-0005
小名木川に掛かる高橋を清澄白河駅に向かって越える。更に南に進むと門前仲町駅・富岡八幡方面になる。
深川七福神F深川神明宮(寿老人)

六間掘りの跡と思われるところをたどりながら深川七福神最後の深川神明宮(寿老人)に辿り着きました。道に迷い、物語の場所に立ち止まったり・・道は遅々として捗りませんでした。それだけ深川には見るべき場所に溢れて居たと言う事です。頭を垂れてこの地にお礼を申し述べました。

此処には神輿の保管庫があるようです。さすが深川と思います。

09/30/2016
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霊巌寺芭蕉の地