谷中七福神5部編・その@上野公園編東覚寺へ天王寺へ日暮里へ護国院へ上野公園
2007年12月3日・小雨、朝からの雨、どうするか迷ってしまいました。どちらかにさいの目を決めかねる時には、尻を重くしてはいけないと何時も思っているので傘をさして出かけて見ることにしました。JR上野駅から日暮里まで小雨と風の中を谷中七福神を回るコースです。雨さえなければ行動範囲をもっと広げられたのですが、結局七福神を回ろうとして二福神を回っただけに終わりました。天候が一因ではありましたが、途中で面白いものに色々引っかかってしまいそれが時間をとることになりました。ホーム・ページ製作の為に電車で出かけることが多くなりました。車では見られなかった多くの事物に出会うことが出来るという思いがけない幸運に恵まれています。2007.12.03
七福神は各地にありますが中でも谷中の七福神巡りはかなり古いものではないかと言われています。谷中は東京の中で在りし日の町並みが最も残っている地域で、多くの寺院や昔ながらの家並み、路地、坂が今でも生活の場所として活きています。その素晴らしさは観光地の見世物としての建物では無いことです。街は立て替えられながら新しく再生されています。多くの寺院を包み込んでいる東京でも稀有な一帯です。

この谷中の山の中の通りは車で通っても、退屈な不忍通りや昭和通り・明治通り等に比べると変化に富んだ楽しい道です。道は狭いし坂道が多い上に一方通行があって入ったら出られなくなる恐れもありますので、道に精通した人の通り道になります。

車では殆どの場所が馴染みなのですが(仕事の途中の素通りですが)、歩いて見るといかに見るべきことを失していたことかという思いが強まるばかりです。そしてちょっと前までは人通りの少ない静かな路地を、連なって見物している人々がかなり居ることにも驚かされました。

谷中マップT・ご希望の場所をクリックしてください
@冷たい雨が降るJR上野駅公園口、駅舎はこの奥にありま
す。A道路側が公園です右の写真→。

上野の公園口から見ると街路樹がすっかり色づいています、風に舞う葉が少なくありません。一番目の目的地、弁天堂を目指して上野公園を突っ切ることにしました。何時もは駐車場に入れてあわただしく目的地に向かう旅ですが、今回は電車ですので時間がたっぷり有ります。JR上野駅公園口を出ると、公園のイチョウは色づいて風に葉をおとしています。小雨の中をのんびり歩きながら不忍の池を目指して公園を歩いていると今までなんで見落としていたのかと思うような場所が幾つもあるのです。考えられるのは上野に下りたら、動物園、花見、博物館、美術館と目的がハッキリしているのでひたすら目的地を目指して急いでいた為としか思えません。

Bロダンの銅像が庭に置かれた国立西洋美術館は毎週月曜日休館です。ムンク展が開催されていました。美術館の横を左に曲がると驚くことに野球場がありました。全く今まで気がつかなかった施設です。

C正岡子規記念球場:根岸に住んでいた野球好きの正岡子規の名をとって”正岡子規記念球場”と命名されていました。句碑一つ”春風や まりを投げたき 草の原”。子規と言えば、藤沢周平の”白き瓶・長塚節”を思い出しました。節も伊藤左千夫も根岸には頻繁に訪れていたのだという思いが心に沸いて来ました。彼らが立ったであろう同じ場所をこれから歩くことになるのだと、その事を強く意識しました。
Dすり鉢山古墳:説明文には、”形状が擂鉢に似ていることから名づけられた約1500年前の前方後円墳と考えられる”とあります。
Eすり鉢山の上にはかって五條天神、清水観音堂が鎮座していたそうです。紅葉と緑の組み合わせがきれいでした。
H清水観音堂:1631年に建立された国の重要文化財、この反対側は能舞台のような重厚な作りです。本堂に安置された子育て観音に願いを込めて叶ったときに人形を奉納します。人形供養の時には沢山の立派な人形が奉納されています、それが表にまで出ているのを見た事があります。
F彰義隊の墓:1868年上野の山で起こった”上野戦争”の彰義隊戦死者の火葬場に、1874年に建てられた墓だそうです。戦争は半日で新政府軍が彰義隊を壊滅させたと説明に書かれていました。山岡鉄舟による”戦死之墓”は文字が既に読みにくくなっていました。同志である鉄舟、ここでも清河八郎の痕跡を見ることが出来ました。この右下・階段を下ると西郷さんの銅像があります。
G時忘れじの塔:関東大震災・東京大空襲の惨事を忘れないようにと言う思いを込めた新しいモニュメント。
I清水坂:清水観音堂から不忍の池に降りる坂道。かなり急な石段。下から見上げると観音堂の屋根が望まれる。
J清水坂から不忍の池弁天堂を望む。雨の中参拝の人の姿が続く。やっと谷中七福神のスタートに立つ。この清水坂と弁天堂の間の公園通りは不忍通りへの抜け道、歩くのは初めてです。タクシーが休憩している姿をよく見かけます。静かな不忍池に沿った道、時は晩秋、落ち葉の絨毯が風に舞っていました。
七福神・一番目・弁財天・不忍池弁天堂J
不忍池を琵琶湖に、琵琶湖の竹生島にみたてて弁天島を築きそこにこの弁天堂を建立したものです。現在の建物は昭和33年に再建されたもの。不忍通りから遠望できる竜宮城のような派手な建物、何時もなにかと思っていました。お参りをして線香をあげる。かもめが看板の上で雨の中じっとしています。人に慣れているのか逃げる気配もありません。
弁天堂に向かって右側に長谷川利行の歌碑を見つけて驚きました。僅かの旅の間でも驚きと感動は有るものです。熊谷守一らによって建立されたと記されていました。長谷川利行については放浪した画家と悲劇的な生活だけをおぼろげに知るだけです。口先だけではなく体を動かして評価を形にしてくれる人々が周りに居たことを目にしてそうだろうと思いました。そうでなくてはとも思いました。
(上)豊太閤護持大黒天堂(下)不忍池名物のハスは枯葉となる。正面は中央通方面、神田・銀座の方向になります。

7/5/2008

本日カウント数-
昨日カウント数-
Copyright (C) Oct. 10,2007 Oozora.All Right Reserved.