築地居留地中央通から隅田川・御宿かわせみの舞台を尋ねてC  @へ  Aへ B  

 2月下旬、体が運ばれそうな強風の中での毎週恒例の土手のジョギングの翌日、近くの歯医者さんへの帰路太腿が痙攣してしまいました。それがきっかけで膝と腰までが痛くなりその症状が中々収まりません。今まで経験した事が無い出来事で整形外科のお世話になりました。それでも無理は出来ず1週間程は薬を飲みながらジョギングを取止めていると歩く事には大きな支障が出なくなりました。近所をテストで歩いても問題は無 さそうなので、毎春恒例の中山道から海までジョギングの下調べを兼ねて築地に出かけてみる事にしました。

築地には江戸幕府開港の折の外国人居留地の有った街、加えて私の好みの”御宿かわせみ”の舞台にもなっている場所で以前かから気になっていました。”御宿かわせみ”の物語を胸に浮かべながら築地居留地を尋ね歩けば物語の感動が更に増す事は間違いないと確信して、この機会に散策してみる事にしました。出発は築地の本願寺築地場外のお寿司屋さんで昼食をとり居留地中央通りに残る記念碑を辿りながら”かわせみ”の舞台であろうと素人の知識で推測した隅田川の川岸にある新川跡までの道を歩いてみました。物語の場所を探しながらの日比谷線・茅場町駅まで約6km程の楽しい散策でした。

”御宿かわせみ”の中でもの表題が付いたおるいさんと東吾の次の世代の麻太郎や源太郎が主人公となる物語の地、 居留地中央通りから2km程隅田川添いに上流に辿るとかっての大川端町がありました。

亀島川の向こう側は畝源三郎が暮らす八丁堀、隅田川に掛かる永代橋を渡れば長助の蕎麦屋がある深川です。隅田川が海に流れ込む雄大な風景の中に広がる東京の町が目を凝らせば江戸の名残を残してくれている得難い場所と言えます。

左の絵図の出典について: https://dl.ndl.go.jp/pid/1286660 〔江戸切絵図〕 築地八町堀日本橋南絵図 国立国会図書館 嘉永2−文久2(1849−1862)刊

 

切り取り加工・名称記入をおこないました。* 地図中の多くの場所には掲載ページのリンクが張られていますのでクリックしていただくとページが開きます。2024.03.18

隅田川・中央大橋とメッセンジャー像

何 気なく大川端町があったと思われる現在の永代橋を目指して隅田川方向に進んでみました。それほど歩く事も無く町並みの小道を進むと驚く事にそこは隅田川に掛かる中央大橋の真下でした。2016年の春、海までのジョギングの折にこの橋を渡って海まで行ったことを懐かしく思い出しました。

マップには地名を記入してあります。それらにはリンクが張られているのでクリックして頂くと掲載ページをご覧いただけます。

2024.03.18

13:54・海に注ぎ込む大きく広がった手前の流れが隅田川。巨大なビルが立ち並ぶ月島が隅田川の流れを二つに分けています。対岸は黒潮運河で海までのジョギングでは通常対岸の越中島公園を通って月島に向かいます。

運河を渡る水門がはっきり見えます。

 

13:54・大きく広がる広大な隅田川と対岸の月島に聳えるビル群、そこに掛かる美しい橋の真ん中にはメッセンジャー像がはっきりとみえます。

メッセンジャー像左の水面には何処へ向かう分かりませんが、上流の浅草方向に白波を立てて船が遡って行きました。

2024.03.18

2016年には、中央大橋を渡って月島にむかいました。その為橋の上からメッセンジャーを見ました。橋の下に立ってこの像を下から見る機会が出来た事は幸運です。それでもその姿の全貌を見る事は叶いません。今回は橋を渡らずに隅田川右岸の隅田川テラスをかっての大川端町を目指して歩くことにして残念ながら詳細に見る事が出来ませんでした。

2024.03.18

13:58・少し動くだけでその都度、東京とは思えない広大な風景が異なった陰影を生み出して見せてくれます。

手前の隅田川は海と言っても良い程の大きな水の流れに広がっていました。

何時も進む対岸の越中島公園から黒潮運河越しに見る風景とは異質の圧倒的な広がりを見せてくれます。

 

13:58・浅草方向の上流に特徴のある永代橋が見えてきました。特徴のある橋梁の上からは土手のジョギングで何時も馴染みのスカイツリーまでもが姿を見せてくれました。

大川端町は永代橋際にあるので目的地はもうすぐです。

2024.03.18

14:02・東京都のそれも中央区とは思えない程の広大な風景の中に白波を立てながら進む船の姿が現れました。額縁の中の絵の様だった広大な風景に現実味を与えてくれます。

2024.03.18

14:05・川岸に明治33年(1900年)の年号と合わせて中央商業学校発祥の地と刻まれた記念碑が置かれていました。

2024.03.18

新川の跡

14:06・隅田川テラスの脇に記念の石柱が置かれた小さな公園が現れました。石柱の文字を見ると驚くことに江戸の物語ではしばしばその舞台として馴染みの”新川の跡”と刻まれていました。酒問屋が軒を連ねた新川が埋め立てられてその跡を残してくれた石柱に出会えると思っても居ませんでした。

2024.03.18

このような石柱を残してくれた事に感謝しました。私のこれからの読書の楽しみに一滴の潤滑油を差し流してくれたようです。

2024.03.18

14:07・石柱の傍に立つ案内版を興味深く見させてもらいました。この説明の中に現在の新川一丁目の3番から4番の間で亀島川から分岐して隅田川に流れていたと書かれています。

グーグル・マップで見ると、永代通りが通る亀島川に掛かる霊岸橋から八丁堀方向に約60m程の場所が該当するように思えました。そこからかっての新川であったと思われる場所に続く道が隅田川に向かっているのを見つける事が出来ました。

2024.03.18

大川端町(推定)

かわせみの位置を推測するヒントがあります。
@ 御宿かわせみ #1・P'7 大川端町のるいの元へ東吾がたずねる場面で”豊海橋のたもとから少し外れて・・・”
A”御宿かわせみ@”のP49”花冷え”の中で”それほど大きな宿ではなかった。10組ほどの客しか泊まれない”

等と書かれていることから豊海橋から少し離れたこの路地の隅田川に面した辺りはその描写に合致しているように思われます。最も作者がどこと特定したわけでもないでしょうから、これはより物語を読む楽しみを増す為の全く個人的な空想という事になります。物語を読む時、この空想の場所に東吾やおるいさんが活き活きと動き回る姿が浮かんできます。

14:09・新川跡の小さな公園の上から永代橋方向を眺めてみました。

この右手の建物辺りが最も隅田川に近いと思いました(作者の考えた舞台とは異なる可能性も大きいと思いますが)。物語の舞台として登場する大川端町は新川跡と現存する豊海橋間の隅田川沿いのこの辺りではないかと推定しました。因みに物語の時代、永代橋は日本橋川に掛かる豊海橋より上流部掛かっていました。

2024.03.18

新川跡の小さな公園の石段には新川1丁目31−1の番地表示がみえます。江戸の物語で何度か新川に集まる酒問屋と酒を運ぶ船の話を読んだことがあります。今回の旅の目的地の周辺になんとか辿り着いたようです。

2024.03.18

かっての大川端町と思われる場所を隅田川方向から見る事にして隅田川テラスに向かいました。テラスの土手には満開のユキヤナギ咲いていました。ユキヤナギの白い房の先に永代橋やスカイツリーが見えました。

2024.03.18

14:12・これが御宿かわせみから見た現代版の風景だと思い暫く立ち止まって日本とは思えない雄大な風景に見とれていました。

2024.03.18

地図が立っているこの辺りは永代橋が掛かっているため道が少し立て込んでいます。永代橋の説明文が地図の下に書かれていました。文中に出てくる対岸の深川の佐賀町が永代島と呼ばれていたので永代橋と名付けられたと書かれています。

因みに佐賀町は御宿かわせみの物語の中で蕎麦屋をやりながら畝源三郎の下で働く長助の住む町です。

江戸時代は現在より上流に永代橋が架かっていました。

日本橋にかっての魚河岸があったことも記されています。

2024.03.18

14:22・隅田川に掛かる首都高速の隅田川大橋と土手のジョギングで馴染みの東京タワーが見えてきました。
2024.03.18
永代橋

14:23・永代橋の上に登ってみました。橋を行き来する地元の方の姿が思ったより多いようです。因みに、江戸時代は現在の場所より隅田川上流部に永代橋が掛かっていました。

2024.03.18

永代橋西詰の入り口に”土木学会選奨土木遺産”の石柱が立っていました。文面の2000は年号と思われますが”帝都””関東大震災”等の文言はどうもこの年号には馴染みません。”帝都を飾るツイン・ゲート(永代橋)”の文字も見られます。以前あったものを2000年に新しく作り直したかもしれませんがはっきりとは分かりませんでした。2024.03.18

男性的なイメージの永代橋と女性的な清洲橋をツインゲートして選奨したと書かれています。2016年4月11日の海までのジョギングの折に渡った清洲橋の掲載文章には”この美しい橋は昭和3年に作られた国の重要文化財と言う石原慎太郎のサインが入った説明が橋に取り付けられていました。”と書いていました。

2024.03.18

14:25・永代橋の周りを散策してみました。このあたりもかっての大川端町であったと思われます。

2024.03.18

豊海橋

14:25・大川端町の北の外れがこの日本橋川と思われます。そこに掛かる橋が豊海橋、以前は海までのジョギングで浅草を過ぎると隅田川の右岸に渡ってこの豊海橋も馴染みの場所でした

現在は隅田川テラスが途切れずに続く左岸の越中島公園から月島に向かっています。

2024.03.18

14:27・懐かしくなって豊海橋を渡ってみました。以前も感じた事ですが小さな橋ですが古い時代の橋らしく趣が感じられる橋でした。時折橋を通り過ぎる人たちも慣れた場所を通る感じで隅田川の景色の中に溶け込んでいるようです。

2024.03.18

豊海橋の説明版を拡大してみました。フィーレンデール橋と呼ばれる形で永代橋とのバランスをとって作られたと書かれていてさもありなんと納得しました。この辺りから見る隅田川の景色は東京都内とは思えない程雄大で美しいと何時も立ち止まって暫し見惚れています。

”御宿かわせみ”#7の”酸漿は殺しの口笛”の”春色大河端”P8では東吾が大川端町のかわせみを尋ねる様子が書かれています。

八丁堀の組屋敷を出て日本橋川に沿って永代橋に向かって歩き隅田川にぶち当たった辺りにある大川端町に向かいます。かわせみは大川端町のかたすみにあると書かれています。私の物語を楽しむ過程では、日本橋川を歩きながら大川との合流地点のこの豊海橋が見えだした時の東吾の喜びを胸に浮かべています。

2024.03.18

14:27・ラッシュ・アワーの始まる前に家に帰ろうと橋の上から日本橋方向を写してみました。2024.03.18
霊岸橋

14:35・住所・中央区日本橋茅場町1丁目1。地下鉄日比谷線の茅場町駅を目指して歩きます。駅の近くで亀島川にかかる霊岸橋を渡りました。今日の旅の最後の橋になります。

2024.03.18

14:35・先程高橋南高橋で渡った亀島川を渡ります。亀島川はこの霊岸橋の辺りで日本橋川と合流しています。橋を渡ると地下鉄日比谷線茅場町駅は目の前です。

因みにかっての新川の流れ込みは画像の川の左岸、少し婉曲した辺りではないかと推測しています。

思った以上の盛りだくさんの思い出が残った東京の街の散策でした。流石中央区と思わせる観光臭を感じさせない落ち着いた町の佇まいを存分に楽しませて貰いました。

2024.03.18

家に帰ってから再度”御宿かわせみ”を読み出しています。単なる物語の舞台と思い乍らもその地を巡る事で、文中の絵空事が恰も現実のように心の中で動き出して来ます。少し騒ぎすぎと思えるのですが、その場に立つ前より数倍の面白さを感じているところです。又、機会が有れば落ち着いた江戸の名残を包み込んだ東京の街を訪れて見たいと思っているところです。

困ったことに再度(何度目の再開になるか)読みだしたら面白くて止まらなくなってしまいました。お陰で、近年歳と共に早寝早起きの癖がしみ込んでしまっていましたが、遅寝早起きが続いています。体調に良くないと分かっていても止められそうにありません。出来れば海までのジョギングで再度訪れて一区切りを付けないといけないと思っているところです。2024.03.18

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築地居留地中央通から隅田川C
Copyright (C) Oct. 10,2007 Oozora.All Right Reserved.
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