隅田川七福神A白鬚神社・向島百花園・多聞寺その@へ
戸時代から続く古い歴史を持つ七福神と言われているのが向島にある寺・神社を回る隅田川七福神です。文化二年(1805)に百花園を開いた風流人・北野屋平兵衛こと佐原鞠嶋(きくう)の発案によるようです。浅草寄りにある五つの寺院を回るのは容易ですが、多聞寺だけが白鬚神社から1.5キロ程離れています。私は百花園の後、東武線で東武東向島から東武鐘ヶ淵まで乗って別に訪れました。ほぼ墨堤通りと呼ばれる土手下の道路に沿っていますので各寺を探すのは難しくありません。ゆっくりお参りをしていると、多聞寺まで入れると一日でやっとかも知れません。@の三囲神社は恵比寿と大黒二神を祀ってあるので、隅田川七福神では六社を回る事になります。ルートの黒字が七福神です。 2008.06.16〜17

ルート(赤字は鉄道利用):JR上野駅地下鉄銀座線・浅草→桜橋→@三囲神社A弘福寺B長命寺C白鬚神社D百花園→東武東向島東武鐘ヶ淵E多聞寺東武鐘ヶ淵東武浅草

野口雨情の碑

『尋ね来て問わば答えよ都鳥隅田川原の露ときえぬと』
の木母寺の梅若伝説に由来して詠んだのかもしれません。

 

墨堤通りは長命寺の先で右にカーブして、見番通りとぶつかります。そこの小さな広場に建っています。この他、隅田川のボート艇庫の記念板などが見られます。

C白鬚神社・寿老神(人)寿老神(人)の表記について
隅田川七福神の各寺院にはこのような詳しい説明書があります。由来や地図がありますので次の場所に簡単に行く事が出来ます。

文化二年(1805)に百花園を開いた風流人・北野屋平兵衛こと佐原鞠嶋(きくう)達が隅田川七福神の内の寿老神(人)を、駄洒落のように決めた話が解説されています。またここは江戸時代寺島村といわれており、野菜の茄子の産地だったそうです。時代小説にも船で寺島村を訪れる話は何度が読んだ覚えがあります。

長命寺から墨堤通りを約1キロ程歩くと、道が左に緩くカーブしそこに信号があります。小さなY字路になっています。右に入るとすぐ白鬚神社が見えます。

重厚な雰囲気の本殿です。頭をたれて祈りを捧げました。白鬚神社由来の看板をご覧下さい。

墨堤通りから右に入ってきました。この右側、トラックの横が白鬚神社です。
振り返る路地の突き当りが白鬚神社。これから200メートル程はなれた百花園に向かいます。
D向島百花園・福禄寿尊
向島百花園は江戸時代からの景観をとどめた庭園です。北野屋平兵衛こと佐原鞠嶋(きくう)が文化二年(1805)梅を多く植えたことから新梅屋敷と呼ばれたことから始まります。万葉集を始とした古典に出てくる文学植物を中心に植えた江戸趣味の植物園です。

隅田川七福神は佐原鞠嶋(きくう)と中心として百花園に集う文人達が考案したものだそうです。鞠嶋(きくう)が福禄寿を園内に祭ってあったことから、隅田川東岸に七福神に見立てられる神社仏閣を割り当てて作ったものです。白鬚神社を寿老人とした話などは、七福神成立のプロセスが理解できる興味深いものです。

佐原鞠嶋(きくう)等の草花に恒常的に物語を感じる精神は捨てたものではないと思います。詩歌を読み登場する草木を思い、草木を愛でて物語を心の中で反芻する。物語と草花の間を行き来して互いへの思いを深くする、素晴らしい試みだと感じました。芭蕉が歌枕の地を旅した気持を思い出させます。ここでは、私が色や姿を競うように咲く西洋的な植物や公園で感じる肩こり感がありません(勿論優劣を言っているのではなく、私の個人的な好みです)、柔らかく包み込まれるような空気が満ちています。植物の目利きの訪れを待って、草花はひっそりと咲いているのです。

この公園の意義は、江戸の町民達が、自分達の文学的趣味を深めるために自らの資財をもって作り維持したという誕生の仕方にあるのではないかと思いました。殿様が農民からの年貢を使って、権威を高めるために年に数回しか訪れないのに、松に石灯籠に池に鯉という決まりきった様式の庭園とは違うと感じます。維持が難しく最終的には東京市(都)が引き継ぐことになるのですが、それでもその後客寄せにボタンだ、バラだ、アジサイだとしなかった見識も素晴らしいと思うのです。最も経済力があったからこそでもありましょうが。一つぐらいは、このように大人しか楽しくない、という庭園があってくれても良いのではないでしょうか。

入口の表門に掛かる扁額は蜀山人のものです。この他にも庭園造りに力を合わせた文人達を含めた29基もの石碑・石柱がが見られます。そこには芭蕉の2つの句碑もあります。
芭蕉句碑
句碑一覧
芭蕉の句は多くの人々にとって既に文芸作品となり、愛好者には自家薬籠中の物となっていたのでしょう。軽い印象の句を選んだ気がします。

芭蕉の句碑・こんにゃくのさしみも些し(すこし)うめの花

句碑の一覧(パンフレットより)
い東京市碑
福禄寿尊碑
芭蕉「春もやや〜」の句碑
に千寿庵益賀句碑
ほ亀田鵬斎墨沱梅荘記碑
へ雲山先生看梅静碑
と茶莞塚と柘植植黙翁句碑
芭蕉「こにやく〜」の句碑
り山上臣憶良秋の七草の歌碑
ぬ大窪詩仏画竹碑
る金今舎道彦句碑
其角堂永機句碑
わ初代河竹新七遣善しのぷ塚の碑
かニ代河竹新七追善狂言塚の碑
よ飯島光峨翁之碑銘碑
た井上和紫句碑
れ芝金顕彰碑
そ鶴久子歌石碑   ‐
つニ神石碑
ね最中堂秋耳句碑
な矢田寫ニ翁句碑
ら日本橋石柱
む月岡芳年翁之碑
う螺舎秀民句碑
ひ杉谷雪樵芦雁画碑
の七十二峰庵十湖句碑
お雪中庵梅年句碑
く北元居士句碑
や寶屋月彦句碑
いろは順の句碑:江戸時代の粋人といわれる人々の句碑に見られる名前には興味深いものがあります。
福禄寿石碑は入口を入った正面にあります。表門を潜って左に曲がると福禄寿堂があります。
百花園では江戸の暮らしを思わせる行事が折々執り行われています。1月の春の七草・セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、を竹籠に植え込んだ七草籠は皇室に献上しているそうです。正月の七福神巡り、夏の大輪朝顔展、虫ききの会、中秋の名月の月見の会、等がパンフレットに書かれていました。

庭園の奥にある池、鴨の親子が居ました。

萩のトンネルです。少し早かったようです。
東武東向島駅。百花園から明治通りを渡って、駅まで徒歩7分。次の東武鐘ヶ淵まで乗りました。
庭園の植物:一目だけではその美しさは薄い印象です。しみじみと時を掛けて愛でる事を求めれるようです。やがて美しさといとおしさがじわりと心にしみこんで来ます。そのような静的な美だと感じました。目立ちすぎる・咲きすぎる花を多分江戸の粋人たちは野暮だと感じたのかもしれません。桜より梅(実用性からも、それおも尊んだと思いますが)だった気がするのです。物語と草花の両方を共鳴させて愛でるという江戸の町人達の優れた企みに私は大きな共感を覚えました。
はぎ
なんてん
あじさい
どくだみ
佐原鞠嶋(きくう)の秋の七草
シモツケソウ(だと思います)
ざくろ
ひおうぎ(手前)ととらのお
ほたるぶくろ
ちんしばい
そばな
スカシユリ(其角堂永機句碑)
ガクアジサイの種類かと思います
路地琴(上から水を注ぎます)
E多聞寺・毘沙門天
 

東武鐘ヶ淵駅から15分ほど路地の散歩を楽しみながらやってきました。前を歩く女性の二人連れがずっと同じ方向に向かいます。結局多問寺まで一緒でした。七福神めぐりかと思いましたが墓参りのようです。江戸中期に建てられた茅葺の屋根が入口です。

山門を潜ると立派な庭が広がります。毘沙門天を祀る多問寺本堂です。鐘を鳴らして頭を垂れました。
六地蔵尊(PDF説明版)

江戸時代の正徳3年(1713)から享保元年(1716)の間に建てられたものです。お地蔵さんは立像が普通なのですが、これは「坐姿六態地蔵」と呼ばれる珍しいお姿の像です。恐ろしくも身につまされる話ですが、仏教における「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六道のどこに彷徨っていても優しく救いの手をさしのべてくれるというお地蔵様だそうです。

多聞寺は天徳年間(957-960)に墨田寺として創生されたと言う伝承がある古い寺院だそうです。天正年間(1573-1591)に現在地に移動。「毘沙門天像」を本尊として、隅田山吉祥院多聞寺と改めて現在に至っているとのことです。 入口から東武線の線路が見えます。今、東武の急行が目の前を通ります。路地の風情といい、音を立てる電車といい、俗の中の澄んだ精神世界です。このような組み合わせが大好きなのです。
各寺院にはこのような大変分かりやすい説明があります。私は東武堀切(約10分)と鐘ヶ淵(15分)の両方から歩いて見ました。堀切からの道は単調で疲れました。
子育て地蔵(左)と、阿弥陀如来像(右)寛文四年(1664年)造立されました。 江戸時代に建てられた門の右上に新しいビル工事の赤いクレーンが見えます。活きている寺です、多分これからも生き続けるでしょう。
墨田地域の庚申講の人々が建てたのでしょうか、多問寺の庚申塚です
鐘ヶ淵駅から多問寺までの道には、所々昭和の雰囲気が残った家並みが見られます。左は酒屋さんのようです。右の家の横には天水桶がありました。

多聞寺は奥行きのある大きなお寺でした。

東武鐘ヶ淵駅までの散歩道は、楽しい道のりでした。多くの路地があったり昭和の建物が見られたり、祭礼の翌日だったらしく街の人々の集まりが見られたりと見知らぬ空間を楽しみました。これから浅草に出ます。
『隅田川七福神』の街は震災と戦災にあって多くの古い建物は無くなってしまったようです。それでも路地があちこちに残り、人々の生活する街の匂いが感じられます。隅田川は何時でもこのあたりのランドマークです。流れる水を見つめていると大都会に居ることを忘れてしまいます。行きかう船は時代小説のあれこれを思い出させてくれました。

鐘ヶ淵は隅田川が西に大きく湾曲する場所です。居眠り磐音の読者なら”無月の橋”で許婚の奈緒(白鶴太夫)が豪勢な紅葉見物を行なう場面が思い出されるでしょう。奈緒の身を守り、それに応えて奈緒は自らの打掛を手渡して去っていきます。このあたりから隅田川は荒川と名前を変えます。

百花園を設立した江戸時代の文人達の植物に対する思いが私には大いに共感を覚えました。文芸と植物を組み合わせて楽しむ庭を造った人々の足跡に出会えた事がこの七福神を回った喜びの大きな一つです。最初に抱いた、植物園が七福神に含まれる謎が解けて、そもそも植物園から七福神が始まったという事が分かったのも大変楽しいことでした。密やかに咲く花々を静かに愛でながら、旅と文芸の芭蕉の姿を思い出してしまいました。隅田川七福神・2部作の項終わり。

7/5/2008
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