隅田川七福神@三囲(みめぐり)神社・弘福寺・長命寺その2へ
江戸時代から続く古い歴史を持つ七福神と言われているのが向島にある寺を回る隅田川七福神です。文化二年(1805)に百花園を開いた風流人・北野屋平兵衛こと佐原鞠嶋(きくう)の発案によるようです。浅草寄りにある五つの寺院を回るのは容易ですが、多聞寺だけが白鬚神社から1.5キロ程離れています。私は百花園の後、東武線で東武東向島から東武鐘ヶ淵まで乗って別に訪れました。ほぼ墨堤通りと呼ばれる土手下の道路に沿っていますので各寺を探すのは難しくありません。ゆっくりお参りをしていると、多聞寺まで入れると一日でやっとかも知れません。@の三囲神社は恵比寿と大黒二神を祀ってあるので、隅田川七福神では六社を回る事になります。ここには待乳山(まつちやま)聖天宮を掲載しましたが、三囲神社の大鳥居前の竹屋の渡しを含めて江戸時代、江都随一と言われた名勝の地の関連で載せてあります。ルートの黒字が七福神です。

ルート(赤字は鉄道利用):JR上野駅地下鉄銀座線・浅草→桜橋→@三囲神社A弘福寺B長命寺C白鬚神社D百花園→東武東向島東武鐘ヶ淵E多聞寺東武鐘ヶ淵東武浅草

隅田川七福神スライド

初期文字

浅草に近い三つの寺(三囲神社・弘福寺・長命寺)は入口が見番通りに面しています。そして反対側は墨堤通り、その間にある事になります。

向島は今でも料亭があり芸者衆も居ると聞いた気がします。見番と言う言葉を聞くのも久しぶりです。震災・戦災と幾多の災害にあっているので古い家が残っているようには見えませんでした。 2008.06.21

隅田川に掛かる橋
吾妻橋・右が浅草、左が向島、本所
東武伊勢崎線の鉄橋です
言問橋(ことといばし)
浅草から隅田川に出たら川に沿って左に遊歩道を歩いていきます。吾妻橋を渡って墨堤通を歩くも良いのですが上を高速が通っているので上流に向かって左(右岸)を歩く事をお勧めします。東武伊勢崎線の鉄橋、言問橋。ここで対岸の向島に渡る方が七福神には便利です。ただ歩道専用の桜橋が川面の見物には最適です。@の三囲神社へは少しだけ戻る事になりますが散歩の道筋としてお勧めです。竹屋の渡しや三囲神社の古い鳥居を見るなら桜橋からの道が便利です。
桜橋、歩行者専用の美しい橋です
4月始めの桜の頃、桜橋から下流
竹屋の渡し
江戸時代浅草から向島へ行くには吾妻橋を通るかこの竹屋の渡しを使うかの方法がありました。竹屋の渡しは、浅草の待乳山(まつちやま・”まっちやま”と聞こえるのですが)聖天宮と、向島の三囲(みめぐり)神社の間を結んでいました。三囲神社の鳥居(左の説明版で現在地と表示されている)は、堤下の大鳥居と言われて浅草からも見えたそうです。その見事な景色が浮世絵などにも描かれています。

竹屋の渡しの名は、浅草山谷堀側にあった船宿「竹屋」に由来しています。昭和五年(1930)、言問橋(ことといばし)の開通によりこの渡しは廃止されました。墨田区教育委員会の看板より抜粋

三囲神社の鳥居

三囲(みめぐり)神社の竹屋の渡しに面した隅田川側の入口の鳥居から入ると、この門があります。通常は閉じられていますので見番通り側の入口から入ります。現在のこの門は文久二年(1862)の再建されたものです。

待乳山(まつちやま)聖天宮

竹屋の渡しの対岸待乳山聖天宮の上から隅田川を見ました。小高い聖天様の丘から見ると江戸時代、江都随一といわれた名勝地の感じが分かりました。

池波正太郎の碑(拡大画像)が待乳山聖天の下にたっていました。聖天宮のすぐ近くに生家があったと書かれていました。震災・戦災と幾多の災害でこのあたり一帯には古い建物が残っていないようです。この聖天さまも新しく建てなおした物だそうです。2008.4.1
左の説明は待乳山聖天宮にあった物より抜粋しました。隅田川七福神には関係ありませんが竹屋の渡しとの関連で訪れて見ました。
@三囲(みめぐり)神社・大黒神と恵比寿神
三囲神社の本殿です。本殿の左に大黒神と恵比寿神の二つの神を祀った社があります。 綺麗に整備された神域です。見番通りからかなり奥まったところに本殿があります。古い墨堤通りの鳥居まではかなりの距離があります。
三囲神社は浅草側から桜橋を渡って、右の方向(言問橋方向)に下りてください。堤から下に鳥居が見えると思います。墨堤通りを渡った反対側が入口になっています。その通りが見番通りです。

途中左に二番目に訪れる弘福寺の大きな甍が見えると思います。

この社に大黒神と恵比寿神の二神が祀られています。
神社の関係者の方だと思うのですが、空き地で野菜を育てています。それが農家の人が作っているように手入れさて見事に育っているのです。この社を守る人の心がけを見た気がしました。
本殿の右側に其角の大きな「雨乞いの」句碑があります。由来は下の説明版から抜粋したものをご高覧下さい。 この石灯籠は藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永三年(1707)に奉納した三囲神社で最も古い年代を示す石造物。

三囲神社の由来が書かれた説明版です。クリックすると拡大図が開きます。

三囲のコンコンさん

目じりのさがった柔和な表情がここいら辺の職人言葉で「みめぐりのコンコンさんみてえだ」と言ったそうです。向店(台に名前が彫られているので、この狐の石像を寄進した店と思われる)は越後屋本店(ほんだな)の道をへだてた向かいにあって木綿を主に扱っていた。共和二年(1802)の奉納。本殿の正面にあります。

A弘福(こうふく)寺・布袋尊
黄檗宗弘福寺300年ほど前に創建された中国色の強い禅宗として知られているそうです。豪壮な門にその雰囲気が出ています。 堂々とした風格の寺院です。桜橋を越えると弘福寺の本堂が望まれます。
かなり広い境内に布袋尊の石碑が建っています。布袋尊は、七福神の神々の中でただ一つ実在の中国の禅僧だそうです。境内は簡素にして風格が感じられる心地よい空間です。
この小さなお堂に右の説明にある咳の爺婆尊像の石像が祀られています。説明にあるように、風外和尚の石像だから風邪除け効能があると信仰をあつめ参拝の人がかなり多いようです。本堂の横にスタンプ台が有りました。記念に一つおしてきました。
弘福寺は三囲神社から約300メートルほど。見番通りを進むと立派な門が見えてきます。隅田川の岸からもひときわ大きな弘福寺の甍が目立ちますのですぐ分かると思います。弘福寺本殿の写真(#3/7)は上のスライドの中にありますのでご高覧下さい。
B長命寺・弁財天
長命寺は三代将軍家光(1604〜1651)が鷹狩りのおりに腹痛をおこし、長命寺の水で薬を服用したところ快癒したと伝えられています。その事から長命水の名を拝し、寺の名も長命寺としたそうです。本堂についてはスライド写真に(#4/7)掲載してあります。全く新しい建物で幼稚園を併設しているために、平日の昼間に内部に入ることは難しいと思います。門扉の一部が開いているとも言われたのですが気が引けてしまうかもしれません。ここでは見事な芭蕉の雪見の句碑と寺の裏にあるさくらもち屋さんが有名です。
長命寺にある弁財天の石碑。長命寺の中に入ることが出来れば裏口から隅田川横の墨堤通りに出ることができます。出たところの右に桜餅屋さんがあります。

見番通りを進んだ場合は長命寺の先で墨堤通りに合流します。長命寺は墨堤通りと見番通りに挟まれて建っています。

長命寺の隅田川側、墨堤通りに面した店の桜餅は向島の名物です。3枚(正確には覚えていません)の塩気の強い桜の葉っぱで包まれた素朴な味の桜餅です。お花見の頃は予約で何時間も待たなくてはなりません。今回は店内の緋毛氈の席で二人のお客さんがのんびりと茶を飲んでいました。
桜餅を食べて休憩の後、隅田川を左に見て墨堤通りを北へ、1キロほど離れたC白鬚神社を目指します。
7/5/2008
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