谷中七福神・そのA上野公園〜日暮里 東覚寺へ天王寺へ日暮里へ護国院へ上野公園
2007年12月3日・小雨。不忍池弁天堂では長谷川利行の歌碑を見つけて大いに満足する。小雨降る道を落ち葉を踏みながら動物園通りを谷中方面に向かう。五條天神社と花園稲荷神社の看板を見つける。

通りからは目立たない社の前を通り過ぎたのですが、駐車の心配がないのでちょっと寄って見ることにする。上野の山の崖にへばりつくようにK五條天神社L花園稲荷神社がありました。こじんまりしていますが、重厚な雰囲気。五條天神社はすり鉢山古墳に鎮座していたという銘文を思い出しました。両社とも七福神には含まれて居ません。2007.12.03

←K五條天神社:日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承によると、東征の折にこの地を通過、薬祖神に加護されたことにちなんでこの地に祭ったとの事です。伝承を別にしてもかなり古くからある神社のようです。薬祖神は薬業関係者に縁のある神社だとの事。茅の輪くぐりの用意も整っていました。

←五條天神社にも子規の句碑が建っていました。

”みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて”

”秋風や 旅の浮世の果知らず”

⇒K五條天神社の鳥居。鳥居の左に子規の句碑。右にL花園稲荷神社。二つの神社はまるで一つの神社のようにくっついている。

動物園通りからK五條天神社L花園稲荷神社への石段を登る。初詣の用意か雨の中職人さん達が数人働いている。進行方向が上野公園方面。二つの神社はぴったりとくっついていて、どこが区切りかも定かではない。
何時も静かな動物園通り。
M鴎外旧居跡:現在”水月ホテル鴎外荘”が建つ。1989年から明治23年9月、本郷駒込に転居するまでこの地に居住する。
 L花園稲荷神社:忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)と言うのが正式ですが、石窟の上にあったので穴稲荷の名で呼ばれていたとの事です。明治六年に再興され、花園稲荷神社と改称されています。こじんまりとした神社ですが、寄進された沢山の鳥居をくぐりぬけると参道が上野公園に繋がっています。何とも愛くるしい神社、動物園通りに戻り先を急ぐ。
 土田邸:鴎外旧居から20メートルほど先にあります。旧忍旅館、昭和3年に建てられた洋館。当時は”花園町の白鷺城”と言われ多くの見物客で賑わったとの事です。自転車が一台止まっています、現在も人が住まわれているようです。
N暗闇坂:動物園通りを進み土田邸を過ぎると右に交番があります。そこを右に曲がると暗闇坂。坂の右は上野高校、対面交通のきついカーブ、気が抜けません。江戸時代なら確かに樹木が生い茂り昼なお暗かったことでしょう。坂の途中にレンガ作りの古い建物を見つける。何度も車で通りましたが今まで全く目に入りませんでした。新たな発見です。車では分かりませんが、歩くとすれ違う車に恐怖を覚えます。
七福神・二番目・護国院大黒天O
       暗闇坂は左に曲がりながら突き当りを右に、トイレがある小さな交差点。角に護国院大黒天の看板が見えます。
 O国院大黒天:前を頻繁に通っているのに此処が谷中七福神の一つだとは全く気がつきませんでした。初めて境内に入って見ました。能楽堂を備えた大きなお寺でした。頭を垂れてお参りをしました。大黒天を経王寺とする場合もあります。
 干菓子の桃林堂前の交差点。左からの道は谷中方面からの一方通行の出口。ここを左に入っていくと長安寺・寿老人方面。右に東京芸大方面を経て昭和通に出ます。
東京芸大の入り口。入り口は道路の左右にありますが、こちらのレンガ造りの方が雰囲気があります。 この建物が何時も何かと思っていたのです。今回確かめたら京成電鉄の駅で今は廃止された廃駅と説明がありました。 公園の周囲を走る小型バス、”東西グルリン”。頻繁に走っているようだ。
P旧因州池田屋敷表門(黒門):因州(鳥取県の一部)池田江戸屋敷の表門。丸の内大名小路に建てられたものが各地に移築された後昭和29年3月上野に移築された。屋根は入母屋造、大名屋敷表門としては最も格式が高い。江戸末期のもの、重要文化財。説明文は碑文より抜粋。
冷たい雨がふる天候に人通りもまばら。博物館・科学博物館共に休館日の為に見物客も訪れない。(右写真上→)東京国立博物館の前から東京芸大方面を望む。この道は桃林堂前の交差点で突き当たる。その左がO護国院大黒天になる。突き当たりの先は言問通り。(右写真下→)人影の絶えた上野公園、この先が上野駅方面。

国立博物館は月曜が休館日、人影はない。
大きな鯨の模型が目印の国立科学博物館。
7/5/2008
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