佐伯泰英・”吉原裏同心” |
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何度目かになりますが、佐伯泰英の”吉原裏同心”を読んでいます。土手の伊勢屋を訪ねた折に何度か吉原の事が気になってはいました。 以前にも吉原の通りを歩いてみようと見返り柳まで行ったのですが、入り口の交番の前でどうも雰囲気がおかしいので戻ってきたことがあります。いい年をしてだらしのない事です。 1週間前、日本橋の社を回った時に偶然元吉原のあった人形町を訪ねました。それもあって今回は、意を決して前から尋ねたかった近くの樋口一葉の跡を辿る事と併せて吉原を巡る事にしました。そして吉原神社で狛犬を見る事にしました。
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8 吉野通り よしのどおり 東浅草1-1 日本堤2-29 都道464号線
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鉄漿溝と高塀に囲まれた2万700余坪。遊女3000人、縦京間135間(256m)x横京間180間(342)50間道は3曲がり衣紋坂
浅草5丁目から大門、日本堤2丁目辺りまでは土手通りと呼んでいるようです。
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現在の浅草7丁目から三ノ輪を結んでいた堤。隅田川出水による被害を防ぐために、幕府が築いた。山谷から聖天町にかけて別の堤があり、合わせて二本堤といい、そこから日本堤と呼ばれるようになった。 | ||||||
広重の吉原と日本堤の錦絵です。左から右に日本堤と堤の上を歩く人々が描かれています。 堤の上には見返り柳、見返り柳から堤を下る道が衣紋坂(五十間道)です。将軍が鷹狩りの折に通る日本堤から見えないように3か所の曲がりがあると伝えられているようです。土手下に見えるのは浅草田圃と思われます。 右が浅草方面で、左が三ノ輪・千住方面になります(投げ込み寺の浄閑寺の方向です)。 手前が2万700坪、鉄漿溝と塀に囲まれた遊女3000人が暮らした吉原でしょう。日本堤は現在は跡形も無く土手通りになっています。(錦絵・国立国会図書館ウェブサイトから転載)
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02/12/2018 | ||||||
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