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千に三つの真だからこそ、切ない遊女達のけなげな姿が荷風ならずとも我々の心を打つのでしょう。搾り出された三つの真だからこそ、嘘の塵芥の中のダイヤのように輝きをますのです。私達は千の真だって時がたてば多くが輝きを失う事を知っています。かえって千の嘘の中にこそおぼろげな真はあったのです、そう思い切らなければとても遊女の一夜は過ごせません。好きな人に真の心を告げれば、遊女達の心は引き裂かれて生きては行けなかったでしょう。家の為に自らを苦界に沈める少女たちが居たのはわずか一昔前の話です、今は海の向うからやってきます。 |
投げ込み寺(浄閑寺)
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浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政2年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、投げ込み寺と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、生まれては苦界、死しては浄閑寺と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。檀徒の他に、遊女やその子供の名前が記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、10冊の過去帳が現存する。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。”今の世のわかき人々”にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。荒川区教育委員会の説明板より
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*私の遊女に対する知識は小説から得られたもので謂わばフィクションの世界です、大きな誤解があるかもしれないと危惧しています。もしそうであったらお許しください。 |
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浄閑寺本堂の裏に大きな新吉原総霊塔がたっています。右前には”生れては苦界死しては浄閑寺”という花又花酔の詩碑がはめ込まれています。この慰霊塔の横の格子を覗いて息を呑みました。中には沢山の骨壷が積み上げられていました。
平均年齢が21歳とか、哀れと言う外ありません。家からも友からも断ち切られた彼女達が、千に三つの真を持っていたと思ってあげたい気持ちです。誰が訪れたか、新しい花が手向けられていました。供養等の裏の家の内部(左側写真の白い壁の家)が火事にあったらしく、無残な姿を晒しています。
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慰霊塔の横から積みあげられた沢山の骨壷が見えました。手を合わせて、心から薄幸の人々の心を拝みました。祈る以外術を知りません。左は花又花酔の詩碑。 |
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荷風碑は横に長いため3個に切って写真を掲載しました。右段上から下に、そして最後はこの下段になります。
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荷風は遊女の心に惹かれてたびたびこの浄閑寺を訪れているようです。その縁でこの地に荷風碑が建立されています。簡潔にして意を尽くした流れるようなリズムを刻む荷風の文章を眼前にして身が縮む思いです。碑文が反射しており、お読みいただくことができるでしょうか。浄閑寺は地下鉄日比谷線・三ノ輪駅の裏にあります。
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王子駅の辺りに音無川は流れています。丁度都電の線路にそったように流れて三ノ輪まで下ってきます。三ノ輪から浅草に向かう道路のあたりが日本堤、音無川の土手だったとところです。土手の伊勢屋はこれに由来しています。 |
浄閑寺の入り口に掛かる史跡案内板。多くの車が行き交う大関横丁から少し入るだけで静寂な空間が広がります。
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