奥の細道をたずねて会津根の細道C石河の滝(乙字ケ滝)

私の暮す村をかすめるように芭蕉・曽良は元禄二年(1689年)6月、歌枕の旅を続けていきました。”奥の細道”1冊を持って芭蕉の跡をたどってみます。芭蕉が立ち止まった地で、同じように私も歩みを止めて目にした自然と物との心の交流を試みてみます。既に計7部からなる那須の細道関の細道を掲載しました。東京・深川編6部を加えると合計13部になっています。続いて会津根の細道を掲載します。会津根(磐梯山)を左に見ながら白河の関から須賀川へと向かいます。@かげ沼A相良等窮B十念寺に続いてC石河の滝を掲載しました。相良等窮差し回しの馬にのって須賀川を出立、石河の滝を経て郡山に向かいます。奥の細道は全17部になります。2008.05.20

ご存知のように石河の滝については曽良の記録があるだけです。石川の滝の渡渉が増水で叶わなかったのですが、それが滝の上流なのか下流なのか、田中の渡しは何処だったのかの疑問を解きたくて再度訪れました。その時の滝をスライドにしました。2008.06.24

田村神社十念寺相良等窮かげ沼乙字ケ滝

関の城下町追分の明神白河の関境の明神遊行柳殺生石二宿の地

”街歩く”に掲載の深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。

元禄二年(1689年) 

芭蕉・曽良須賀川滞在表

旧暦
場所
新暦
4月29日 須賀川を馬で発ち乙字ケ滝へ向かう。阿武隈川にそって郡山に向かう。郡山宿。
6月16日

この日の行程は阿武隈川を二度わたりかえし、郡山に至るかなりの行程です。奥の細道には記述が見られません。基本的に”歌枕の地にたって古の歌人との心の交流”が目的の旅であると巷間言われています。といっても、芭蕉も物見遊山を絶対にしないわけではないようです。須賀川の俳人達の助言と案内で阿武隈川の景色を楽しんだ行程ではないでしょうか。

私にとっては芭蕉のたどった道を出来る限り訪ねることが100の知識より大切な事です。芭蕉が歩きながら祈りながら心の交流を行った跡を同じようにしてたどりながら、芭蕉との心の交流を試みることが知識の乏しい私の奥の細道の理解には欠かせないのです。奥の細道本文に書かれていない乙字ケ滝から郡山の間、暫くは曽良の同行旅日記を頼りに芭蕉の旅での交流の跡を辿ろうと思っています。
乙字ケ滝(石河の滝)については奥の細道の記述がありません。曽良の旅日記を基にその旅の跡を辿ってみます。上の文章は石河の滝(別名
尺貫表示
メートル・センチ
1里 36町
3.93キロ
1町(丁) 60間
約109メートル
1尺 10寸
30.3センチ
1間 6尺
1.8メートル
1丈 10尺
3.03メートル
乙字ケ滝)の曽良の日記です。撮影の日も、芭蕉が訪れた日も水量が大変多く、滝の水が激しい勢いで落ち込んでいます。平水位ですと滝を人馬共に渡れるのですが(この滝を通って物資輸送の船運が開けていた)、芭蕉の訪れた日は水量が多く叶わなかったのです。左の写真は滝の下流ですが、そこの田中の渡しを左から右へと渡ったようです。人は船で、馬は手馴れた者が引いて渡ったと言われています。全てのモニュメントは須賀川から橋を渡った石川郡玉川村にあります。私もこの滝の名前を主に”石河の滝”と呼んでこの段を書きたいと思います。私が訪れた日は大雨の影響で阿武隈川は沸き立つような激流でした。

(曽良旅日記意訳)4月29日(新暦6月19日)この日は快晴・朝10頃出発。石河の滝(乙字け滝)を見に行く。須賀川から東南6キロ程のところにある。石河の滝から1キロほど下(田中の渡し)を渡り、上流に登る。歩いて渡ればよほど近いそうだ。阿武隈川は川幅が220から230メートルもある。滝は流れを幾つかに分かれて差し渡しで450から470メートルほどの長さがある。高さは6メートル、4.6メートルから5メートル、場所によっては3メートル程の場所もある。(川幅等は換算しましたが、私の感じでは曽良の記録より少し狭い気がしています。ただ河川改修等がなされていますので一概に間違いとは言えないと思います。)

石河の滝(乙字ケ滝)スライド

初期文字

2回目の訪問記録

曽良が”滝の上渡レバ余程近由”と書き残していますが、5月20日の訪問では渡渉地点が石川の滝の上流なのか下流なのかが確認が出来ませんでした。そこで再度6月24日に訪れて見ました。芭蕉が訪れた季節に近いせいか、やはり水が多く濁っていました。それでも滝の上流が浅い岩盤になっていて須賀川側から2/3程までは水量が多いと思ったこの日でもおよそくるぶしの上ほどでした。私の印象は、平水で残りの1/3もルートが分かっていればそれほど難しい事はないと思えました。滝の下流は深く、歩いて渡るのは多分難しいのではないでしょうか。岩盤で滑って手を切って、両膝を強打して分かった結論です。ただ、間違っている恐れもあるので、再度確認してみたいと思ってます。2008.06.24

滝の上はこのような岩盤が須賀川側から阿武隈川に入ると2/3程続いています。今日は増水していたのではっきりと水底が見えたわけではありませんが、ここから少し上流、赤い乙字橋に向かい阿武隈川を渡るのではないかと思います。 滝の上の岩盤はかなり滑りやすく慌てて転んでしまいました。手を深く切り、両膝を強打、その日は階段の昇り降りにも苦労しました。胸までの長靴を履いていたのでズボンは濡れなかったのですが、上のシャツは酷く濡れてしまいました。それでも芭蕉が渡渉しようとした位置の疑問が解決して大いに満足。2008.06.24
滝横にある芭蕉と曽良の石像からあふれる滝を望む。二つの小さな石像は木漏れ日の中にひっそりと立っています。川は芭蕉が越えた白河から流れ下ってきます。この流れに導かれるごとく北へと道をとることになります。木陰の中には石河の滝(乙字け滝)の小さな石碑があります。

2008.05.20

滝を下から眺めましたが、今日の豊かな水流のせいで落差も流れも分かりにくくなっています。水面に僅かな凹凸が見えるだけです。

須賀川から来てこの赤い乙字橋を渡ります、この直ぐ上流に118号線の青色の乙字大橋があります。駐車場や句碑は反対側(右岸)に渡った橋の袂にあります。
石河の滝に掛かる赤い乙字橋を下から望みました。右が須賀川方面、左が句碑・滝見不動・駐車場などがある玉川村です。2008.05.20

滝の横のショウマの群生地から川に降りてみました。ゴロタ石が川幅の半分以上まで敷き詰められています。何の目的なのか分かりません。先端まで歩いて滝を真正面から見てみましたが、横からの景色に軍配を上げます。少し変化に乏しいと感じました。

7月の初めに訪れたときには、赤と白のショウマが滝の横の斜面を覆っていました。植えたものか、自然に増えたものか判然としません。家にあるアスチェルベと同じです。ショウマの群生する間から滝を見ました、二つの美を一緒に鑑賞する贅沢な時を過ごしました。訪れる人も殆どいません、贅沢の独り占めです。まさに田舎の暮らしの豊かさでしょうか。2008.07.08
月山神社・羽黒山神社・湯殿山神社
石河の滝の右岸に出羽三山を合祀した場所があります。本物の三山を回った地元の人々が建てた記念の石碑も幾つか見られます。そこまで訪れる事が難しい人の為の神域でしょう。
出羽三山の石碑がある場所に古峰神社の石碑があります。古峰神社(ふるみね)は栃木県の大芦川源流地帯にある神社で、天狗を祭る神社として全国から参拝者が訪れます。私も幾つかのこの神社の石碑を見た事を思い出しました。出羽三山と一緒に山岳信仰の神社として合祀してあるようです。

この山岳信仰の斎場の中心部にあるのが上の写真の大きな石像です。何なのかはっきり分かりませんが、異様なお顔と体形にひきつけられました。高さは2メートルを越えるでしょう。設置場所が出羽三山の石碑が立つ一帯ですので、確実ではありませんが滝見不動の説明を見て、もしかしたら聖徳太子の石像かもしれないと思いました。ただ、お札や良く知られ聖徳太子とは余りにも印象が違うのでそうでないかもしれません。確認次第訂正いたします。
芭蕉と曽良の石像と句碑
芭蕉の句碑の傍らに作られた高さ1メート強の高さの石像です。平成になって、地元の人々によって作られたと説明板にあります。下にその説明板の写真を掲載しました。曽良の俳諧書留にこの句が記載されています。

曽良俳諧書留・須賀川

須か川の駅より東二里ばかりに、石河の瀧といふあよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ

 さみだれは 瀧降りうづむ

     みかさ哉   翁(芭蕉)   

案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。薬師也。

 句碑では”さみだれの”となっています。推敲の結果芭蕉が”の”としたのではないかと想像しています。 芭蕉・曽良の石像の横に立つ説明板。
自然石の句碑には”五月雨の滝降り埋む水かさ哉”が刻まれています。句碑は高さ1mほどの小ぶりなものです。この句碑は文化10年(1813)江戸の俳人一可が竜崎須賀川(滝見不動堂の氏子衆が住む地域の名前)の俳人達の協力で建立されたと説明板にあります。ご存知のごとく”はせを”は芭蕉の俳号の一つです。
句碑の裏から石河の滝を眺めます。句碑は青葉の木陰に囲まれています。芭蕉が滝を訪れてからおよそ300年、それからおよそ100年後に建てられた句碑。今までの200年の間、多くの芭蕉の跡を辿る人々の姿を迎えたことになります。多くの物事も人々も百代の過客として歴史の中に流れ去っていきました、やがて自らの番がやってくるでしょう。

滝の水音は変わらずに辺りに心地よい自然の律動を与え続けています、止まることなく。

滝見不動堂
滝の横に滝見不動があります。看板によれば芭蕉の訪れた頃に既にあったと書かれています。これほど立派な社殿ではなかったのかもしれませんが、祈りを捧げました。まことに勝手な想像ですが、このような時は何時も芭蕉や曽良もこの同じ地面に立って頭を垂れたのだと思いながら祈っています。2008.05.20
 滝見不動堂に付いての詳細な説明板です。 不動堂横に立っている2つの大きな説明板。芭蕉の訪れた石河の滝の歴史的状況が少し理解できました。そして、この地に暮した人々が守ってきたこの社、そこに込められた願いに私も頭をたれて一つ加えささせて貰いました。それぞれの看板をクリックしてください、拡大図が開きます。

この地域の全ての事柄についての詳細な歴史的説明が紹介されています。

滝見不動堂の向こうに見えるのが石河の滝です。芭蕉がこの地を訪れ頭を垂れたと思えば、景色から受ける思いも異なります。

曽良旅日記に”滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。”と書かれています。下流から(写真の右方向)から、芭蕉、曽良、須賀川の俳人達が滝を見ながら木漏れ日の中を歩いてくる姿が目に浮かんできました。景色を愛でながら、互いに句へとうたい込む言葉への想いを話し合っていたのでしょうか。

楽しい幻が覚めれば、穏やかな春の日差しが滝の上を照らしていました。

句碑は芭蕉との心の交流の喜びを表現したものでしょうから、見ることは十分興味深いものがあります。ただ、もっと、句碑を建てた人を通さずに、直接的に芭蕉との交流を望んでいます。ですから、このような地に立つ事は私が最も望んでいる事、乏しい知識を補って私なりの芭蕉の姿が浮かんでくるのです。芭蕉は肉体を動かす旅を糧としてこの物語を世に出したのです、読む人が同じように足を運ぶことが物語との交流にはかなり有効な手段の一つではないかと思うのです。

それ(芭蕉と同じ場所に身を置く事)は西行、能因、そして諸々の芭蕉の知識(多くの参考書がこれで占められています)等にそれほどこだわる事のないことを教えてくれるような気がします。多くの人々が自分なりの想いと知識をもって、まるで遍路のように芭蕉の跡を訪ね歩く、それこそが奥の細道の作者が最も望んだ読者の姿ではなかったかと思っています。

発行時多くの人が跡を訪ねる事を想定してはいなかったでしょう、訪ねる人も関係する土地の近隣在住の人が多かったと思います(数十人江戸からの訪問者が数十年の間にあったとしても、交通機関の発達した今ほどは)。これほど多くの人々が文章に惹かれてその地まで足を運んでくれる、これは物語に企みを込めた作者(西行や能因の事を知ってもらう事が著作の目的でないことは当然でしょうから)の大きな喜びではないかと思うのです。多くの人々に感動を与え心を動かし足を運ばせたのですから。私にとって知識は理解の手助けの手段であります、奥の細道を知識だけにとどめるには勿体ないと思うのです。芭蕉は肉体を酷使してこの物語を世に出したのです、読んでその地で芭蕉との心の交流を行う、まさに芭蕉の旅の大きな目的が歌枕の地を訪ねて古の歌人との交流であったように。知識の乏しい私はこう思いながら芭蕉の跡を辿っています、何時も間違っているかもしれないと危惧しながら。

芭蕉にひかれて現地を訪れる喜びは、付随してこの地に暮して来た人々の物語を知ることが出来ることにもあります。古の歌人の歌の数々より、このような物語に接することは私に幾層倍の喜びを与えてくれます。文久二年(1862年・芭蕉より約200年後)から長さ12メートル、幅1.65メートルの船を使って船運を地元の有力者が私財で通した事が記されています。この石河の滝に掘割を開いて、滝の上流の中島村(白河の北隣)から下流の郡山まで船で物資を運んだと言う物語に感銘をうけました。今は木漏れ日の広がる静かな一帯ですが、芭蕉が通った江戸時代はもっと活気にあふれた場所だったのではないかと想いを巡らせました。

須賀川から橋を越えると石川郡玉川村になります。この場所がトイレなども設置されている駐車場です。6〜7台は止めることが出来ます。ここを先に見える林の中に入って行きます。
入り口に玉川村の案内看板があります。芭蕉についての記述やこの地の歴史については林の中の滝見不動堂の前に詳細な看板があります。
須賀川市役所からの順路は、118号を真っ直ぐ石川方面に進むと須賀川ボタン園が左に出てきます。それを過ぎると右・白河方面への118号の標識が出てきます。更に直進すると阿武隈川が近づいて左・乙字ケ滝の脇道の標識が出てきます。左に入ると赤い橋が出てきて左に石河の滝が見えてきます。それを渡って更に進むとこの公園の前に出ます。脇道を通り過ぎても118号をそのまま進むと赤い橋の一本上流にある乙字大橋に出ます。下流を見ていると滝のありかはすぐ分かります。*芭蕉の辿った道の地図は「田村神社」のページにあります。
芭蕉は石河の滝を見たあと阿武隈川東側を通りながら森山の大元明王(田村神社)へと向かいます。私もその跡を追ってみようと思います。仕事の合間になるので何時になるかと思っています。
             
9/6/2008

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