私の暮す村をかすめるように芭蕉・曽良は元禄二年(1689年)6月、歌枕の旅を続けていきました。”奥の細道”1冊を持って芭蕉の跡をたどってみます。芭蕉が立ち止まった地で、同じように私も歩みを止めて目にした自然と物との心の交流を試みてみます。既に計7部からなる那須の細道と関の細道を掲載しました。東京・深川編6部を加えると合計13部になっています。続いて会津根の細道を掲載します。会津根(磐梯山)を左に見ながら白河の関から須賀川へと向かいます。@かげ沼A相良等窮B十念寺C石河の滝D守山田村神社を掲載しました。相良等窮差し回しの馬にのって須賀川を出立、石河の滝を経て守山田村神社を目指し、そして郡山に向かいます。奥の細道は全18部になります。 |
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”街歩く”に掲載の深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。 |
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曽良旅日記・四月二十九日(新暦6月16日)
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芭蕉の足跡地図(須賀川等窮旧宅から小塩江まで)
Sの小塩江中学を右折すると後は道は真っ直ぐに49号線・守山に出ますので地図へ記入しておりません。随所の 赤い線は芭蕉が通ったと考えられる道を表しています。何度も迷いましたが、車でその跡を探しながら辿って見ました。尚、赤の破線は田中の渡しから芭蕉が石河の滝を訪れた道と思われる行程を表しています。 各説明にもあるように、多くは区画整理などで道が変わってしまっています。通った場所を確定することが今では困難です。手がかりは曽良の旅日記に書かれた場所だけです。以上の事から、芭蕉の通ったと思われる場所を、何度かは掠めた程度になるかもしれません。私にはそれでも十分芭蕉との心の交流が出来たと感じています。*須賀川芭蕉記念館で頂いた地図とうかがった話を参考にして辿って見ました。 |
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芭蕉はこれから更に北に向かいます。私は慣れ親しんだ住む村と街の近くの芭蕉の跡を辿って見ようと思っています。一旦街のそばの芭蕉の足跡を探すべく南に向かいたいと思っている所です。 |
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