奥の細道をたずねて那須の細道@高久二宿の地

私の暮す村をかすめるように芭蕉・曽良は元禄二年(1689年)6月、歌枕の旅を続けていきました。”奥の細道”1冊を持って芭蕉の跡をたどってみます。芭蕉が立ち止まった地で、同じように私も歩みを止めて目にした自然と物との心の交流を試みてみます。既に計7部からなる那須の細道関の細道を掲載しました。東京・深川編6部を加えると合計13部になっています。続いて会津根の細道を掲載します。会津根(磐梯山)を左に見ながら白河の関から須賀川へと向かいます。@かげ沼A相良等窮B十念寺に続いてC石河の滝(乙字ケ滝)を掲載しました。相良等窮差し回しの馬にのって須賀川を出立、石河の滝を経て郡山に向かいます。奥の細道は全17部になります。2008.3.2

田村神社十念寺相良等窮かげ沼乙字ケ滝

関の城下町追分の明神白河の関境の明神遊行柳殺生石二宿の地

”街歩く”に掲載の深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。

奥の細道に出発の朝は晴れ、那須山がはっきりと空に向かって突き出しています。北側からの眺めが変化があって好ましく感じます。那須へのメイン・ルート、県道17号線からの那須山(真ん中の山です)は平面的な印象があります。ここは、混雑するメイン・ルートを避ける地元の人々の生活道路です。何時も那須山を見るときにはここを訪れます、ほぼ那須連山の全てが見渡せるのです。今日は頂上も見えます。芭蕉の跡をたどりながらの旅の幸先は吉と出ました。ちなみに、芭蕉が訪れた湯本温泉は那須山の雪が切れて黒っぽくなったあたりです。その道のりの遠さがお分かりいただけるでしょうか。第一回目は、芭蕉と曽良が二泊した那須町の芭蕉翁塚高久家の句碑を訪ねる旅になります。関東平野の平坦な道から、奥州への関門、国境への山道となります。憧れの白河の関に向かって芭蕉と曽良は登り出します。2008.3.3
参考書に辟易したとは言え、それ無しでは奥の細道で迷うのも事実です。これは、5冊ほどの中から私が最終的に選んだ一冊の参考書です。著者は芭蕉の旅を歌枕の地への旅だと述べて、更に”芭蕉の行って見たいのは、文学と歴史と自然とが結合した場所であり物である。見たいのは人間と時間とが結びついた自然であり物である。”と書いています。

数年前からただ美しい、綺麗な自然や物に感動する事が少なくなっていて、私の精神が硬直したかと案じていました。卑近な例で言えば、雪を頂いた富士山だけでは飽きるのです。そこに富士浅間神社があり、江戸時代の富士講の石碑を添えると俄然私の中で富士山が輝きを増すのです。著者のこの言葉が私の自然観の変化の謎を解き明かしてくれたのです。

奥の細道の原文に立ち入ることを避けて、読む人が自由に心を遊ばせられるようにさりげなく知識を与えてくれる(与えられる知的な事柄は深く興味深いものですが)書き方にも好意を持ちました。新潮社・奥の細道を歩く・井本農一、村松友次・土田ヒロミ著。

元禄二年(1689年)         芭蕉・曽良那須滞在表
旧暦
新暦
場所
4月16日
6月3日
黒羽をたって那須町高久の高久覚左衛門宅に宿泊する。
4月17日
6月4日
雨の為高久覚左衛門宅に宿泊する。
4月18日
6月5日
那須湯本温泉の湯宿・五左衛門に宿泊する。
4月19日
6月6日
湯本温泉内の温泉神社、殺生石を見る。
4月20日
6月7日
朝8時に湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出る。旗宿に泊まる。
   旧4号線と県道17号線とが交差する那須分岐点”手前が那須湯本温泉、右が黒磯駅、直進が遊行柳、左が芭蕉の訪れた二宿の地になります。
スーパーのイオンを左に見て信号を一つ過ぎると右側に高福寺が見えます。境内に芭蕉の句碑があります。
   大きな屋根が高福寺の本堂、その手前の木の植えられた場所に句碑があります。
深川の芭蕉の地(下・深川の芭
蕉像)に足を踏み入れたことがきっかけで、なんとか奥の細道を読み通した程度の知識しか私にはありません。そこで何冊かの奥の細道の解説書を読んでみました。余りにも細部にわたる研究・形式の在るゆえの宿命でしょうが約束事の多さに投げ出したくなりました。

単に面白い物語としての奥の細道を読みたかったのですが、リズム感にあふれた奥の細道の文章と作者芭蕉の姿が遠ざかるばかり、細道は山の森の中にかき消えてしまいそうです。解説書を読めば読むほど、知識の無い私の芭蕉の跡を訪れる気持ちはしぼんできます。それでも、折角なのだから、住む村の近くにある芭蕉の地にたってその心を感じてみたいと言う気持ちは抑えがたく、芭蕉について、奥の細道の物語について考えを巡らして見ました。

         芭蕉二宿の地・関係地図
奥の細道を旅した芭蕉(寛永21年・1644年〜 元禄7年・1694年)は、澄んだ精神を内蔵した肉体を、自らの足で一歩ずつ運んで歌枕の地を経巡った事は私でもおぼろげに理解できます。この事実の上に奥の細道の物語をよこたえてみました。

旅する時には、朝、宿をたったら次の宿までたどり着く丈夫な二本の足だけが頼りです。知識やお題目では一歩たりとも坂道を登る事は出来ません。この時芭蕉の第一の関心事は、石を避け緩い傾斜を探しながらとにかくつつがなく歩くことにあったに違いありません。まさに歩を進めている大部分の時間は無我の境地といえるでしょう。だからこそ、やるべきことも考えることも一つだからこそ、精神も自由なのではないでしょうか。一事だけに集中した余裕ある精神と肉体が互いに共鳴しあいながら歌まくらの地にたったからこそ、躍動する魅力的な文章になったと私の貧弱な知恵で感じました。

既に多くの古の言葉を消化して自らのものとしている芭蕉にとって、吐き出された奥の細道の文言こそが芭蕉なのです。後世の人々が、芭蕉の精神を腑分けするがごとく、その言葉は何に由来していると書きますが、たとえそうであっても、既に血肉となった紛れもない芭蕉の言葉なのです。瑣末な事にこだわらず、奥の細道の言葉だけを素直に見つめることで良いのではと思い至りました。

ならば、私の能力で出来ることと言えば、自分の知識の及ぶ範囲で、芭蕉の奥の細道の原本の場所をたどり、芭蕉との心の通い合いを試みてみようということになります。芭蕉の心と曽良の記録、この二つを先達にして歩ける範囲をゆっくりと見てみたいと思っています。

一回目として、那須から白河の道をたどってみました。これは、殆どの場所が私にとっては馴染みの場所でしたので曽良の記録をたどることが容易だったからです。それと、この二つの町はことさらに芭蕉を売り物にしていないことも“奥の細道”にはふさわしいと思ったこともあります。当然、それに頼る必要のない経済力があるからこそなのは分かってはいるのですが、“芭蕉饅頭”に“芭蕉羊羹”でも売っていそうな売り込みの激しい地(実際はしりませんが)を最初の訪問地として選ぶのにいささか怖気をふるってしまったのです。

一度で心が感動しないのなら、もう一度、それでも沸き立つ心にならないのなら何度でも、秋に・冬に・夏に・春に訪れれば良いことです。幸い私の住む村をかすめて芭蕉は奥の細道の旅を続けたのです。以上の事から、ここに書かれた印象は全く個人的なもので、奥の細道と言うより”僕の細道”とい言う題があたっています。この歳で僕というのも差しさわりがありまので、私の住む村の奥の細道をたどって、その地の細道と題を付けてみました。

曽良の記録を元に、二人が歩いた道の話は沢山のウエッブ・サイトで見ることが出来ます。これらは私のような付け焼刃の知識の者には及ばないほど専門的で詳細です。これほど多くの人々が自分なりの思いで芭蕉の地を実際に歩いていることには大変勇気付けられました。

自分の知識の及ぶ範囲で、何処を歩いたかではなく、芭蕉の跡をたどりながら何を思ったかを出来る限り記したいと思います。理解が誤っているかもしれないことを危惧しますが、それは追々芭蕉の地に何度も立ちながら私の及ぶ範囲で理解を深めていければと思っています。

左写真・芭蕉が高久家滞在の礼として残した自筆の俳句懐紙の文言です。尚、ご存知かと思いますが風羅坊は芭蕉の別称です。

(D)高久家の横に、芭蕉来訪を記念して立てられた石碑。杜鵑の墓とも呼ばれています。屋根が掛けられています。

高福寺の句碑
黒羽の大関藩城代家老・浄法寺図書の紹介状を持って芭蕉が2泊した高久家が近づいてきます。黒磯駅方面から来た場合、スーパーのイオンが左に出てくると、少しで信号があります(多分那須分岐点の信号から一つ目だと思います)。信号から10メートルほど行った右側に大変格式が高い高久家の菩提寺である高福寺があります。落ち着きがある立派な古刹に見えます。寺の説明に本殿に参ってからと書かれていたので、手をあわせて芭蕉に会いに来たことを祈りました。句碑があると言うことですが、その看板もまったくありません。芭蕉を売り物になどしない、それが私には清清しい気がしてなりません。 那須には高久と地名が付いた広大な場所が現在までもありますが、この高久家に由来しているようです(地名が先にあったのかもしれませんが)。句碑をあちらこちら捜してしまいました。表に出て看板でもないかと見ました、中でも捜しました。やっと見つけたそれは目立たないけれど本殿の前に小さく建てられていました。この句碑を見て高久覚左衛門と高福寺の品格、そして芭蕉の人柄にも思いをはせました。
句碑を捜すについては大変なおまけがついていました。境内を探しても見つからないので(思ったより小さいのです)、もしかして高久家の墓地に句碑があるのではないかと思ったのです。それで鐘撞の横から墓地に入って行くと、右手に古くて大きな墓が目に入りました。高久家と書かれた墓石が幾つかありました。どうもこれは古くて大きな墓地だからもしかしたらと、ぐるりと囲まれた墓石の名前を見ていました。左の2番目に高久覚左衛門信近の文字が彫られていました。享保18年の彫り込みが見られます。芭蕉が尋ねたその人かどうかは確信が持てませんが、そうであろうと手を合わせました。2008.3.2

   高福寺で句碑が分からず、もしや高久家の墓にあるのかと探して見ました。高久覚左衛門信近の文字が偶然目に入ったのです。わざわざ私の目の前に現れてくれたように思えました。
  

享保18年(1733年)と読めます。芭蕉が訪れた元禄2年(1689年)と符合するのではないでしょうか。この時より44年存命であったとしたら当時としてはかなり長命な人生であったでしょう。 高福寺の句碑は思ったより小さなものでした。まことに良いサイズです。文字も消えかかっています。句碑の芭蕉・曽良の文字を書き出してみました。
杜鵑(ほととぎす)の墓・芭蕉翁塚
高福寺を出て寺の前の旧4号線(県道303号線兼用)を白河方面に向かいます。高久家は確かにこの近くですが何の目印も看板もありません(どうか那須町はこのままにして置いてください、尋ねたい人は何とか探しますから)。少し歩いて植木の剪定をしている人に尋ねたらすぐ分かりました。高福寺から7〜8分ほど更に白河方面に歩くと右側に芭蕉翁塚がありました。後ろは孟宗竹の竹林です、ここに芭蕉訪問のモニュメントが集まっています。詳細な説明版(写真右)が建っています、これが大いに理解の助けになりました。この道が旧原街道であることが書かれているのにびっくりしてしまいました。いずれ原街道を訪ねて見たいと思っていたからです。 那須町教育委員会がたてた大変詳細な杜鵑(ホトトギス)の墓・石碑の説明です。右側面・表面・左側面の3面の碑文が書きとめられています。長年風雨にさらされていたために今では一部判読不能になっています。B各部を拡大してみました。
芭蕉翁塚

芭蕉来訪を記念して、高久家北側の小高い丘に1754年に立てられた”芭蕉庵桃青君碑”別名杜鵑の墓と呼ばれる右の石碑(D)があります。長年の雨で彫られた文字が薄くなっています。坂道を少し登ります。石碑文面・由来等は案内板B部分に書かれています。地方都市に住む資産家階級の文化的関心の高さは非常に高いものだったでしょう。著名な本物の江戸の俳人・芭蕉の訪問を心から感謝もし歓待もしたのでしょう。もちろん芭蕉の人柄にもひかれ、心の交流があったと推測できます。3代目の孫が立てたと言うこの石碑はその表れだったのでしょうか。

A部分の拡大)

この親切な説明文で芭蕉と高久覚左衛門・高久家との関係が分かりました。現在も那須には高久の名前が付いた地名が広大な範囲にありますが、それもなるほどと思える高久家の歴史です。

又、高久家の前の通りが現在は旧4号国道(県道303号線と兼用)であり、昔は会津地方からの米の物資輸送路として栄えた原街道であったことにも驚きました。そうであれば、高久家がその問屋であったことは当然だと思います。

↓(B部分の拡大)”芭蕉庵桃青君碑”別名杜鵑の墓と呼ばれるの石碑(D:上段に写真があります)の文字が判読しぬくくなっています。石碑の右側面・表面・左側面を読み下したものです。
二宿の地・高久家
この碑は高久家の敷地の原街道の際に立っています。芭蕉が二夜宿泊したことの印。高久家の歴史については上記那須町教育委員会の看板に詳細に語られています。

は高久家に残る芭蕉直筆の俳句懐紙(俳句を書く用紙の一種)。それを元に碑文にして残してある。

写真左は芭蕉翁塚から高福寺・黒磯駅方面を望む。右の写真は白河方面を望む。 高福寺を旧4号線から見ます。直ぐ後ろに4号バイパス。
6/9/2008