白河の関・フジの花 |
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白河農協直売所”り菜庵”で買い物の後近くの白河の関でフジを見る事にしました。晴天、そして今年の春の暑さが続いています。もしかするとフジは終わりかもしれないと思いながら旗宿までやってきました。
新緑がまぶしく輝いていました。元禄2年(1689年)新暦の6月7日、芭蕉と曽良も古の歌人たちが越えた白河の関を越えました。車は芭蕉の宿泊した旗宿の集落を抜けます。白河の関の前の小さな駐車場に車を止めます。トイレも備わっている無料の駐車場です。白河の関跡に向かいます。小山の上には神社や空堀の遺構等があります。2015.05.11 |
石段に向かうと、植栽の山ツツジは既に真っ赤な花弁をまき散らしていました。山ツツジが植えられた仕切りの地面が真っ赤に染まっています。写真は落ちた花弁の絨毯です。
白河の地から仰ぎ見る那須山ではまさに山ツツジが満開の時を迎えています。2015.05.11 |
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見上げるとフジが白河神社の鎮守の森に聳える大木の一番上に咲いているのが望まれます。鳥居をくぐり石段を登ります。振り返ると太いフジの幹が見えます。鎮守の森は、空を大木に覆われて昼なお暗い静寂の神域です。石段の両側には松平定信の白河の関確定の石碑などの歴史の証人の遺構が見られます。2015.05.1 |
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神社への石段の脇の狛犬が私の知る形と大きく異なります。塔楼の傘も見なれない優雅な形をしています。後ろに神社の社が見えます。
神社でお参りを済ませて右手に向かいます。鎮守の森の道を藤を探して歩きます。二人の方とすれ違った以外誰も行き合わない静かな森です。 |
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白河神社脇に立つ案内板です。訪れた人も、訪れなかった人も当時の白河の関は思いを込めるに十分な場所だったようです。漂泊の旅を思う歌人の心の中の一里塚だったのでしょう。2015.05.11
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駐車場に降りてきました。白河の関のツツジが今年の春の温かさで少し遅かったようなので那須山のツツジを見に行くことにしました。一旦村まで戻りお茶と昼食の用意をしなくてなりません。2015.05.11
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最初に目にした白河関入口の大きなフジの花を写真に収めました。絡みついている木がかなりの大木です。更にその木の上に花房を下げているので果たして映るのかが案じられるほどです。2015.05.11
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下から見上げても木が邪魔になって見えません。通りまで下がってシャッターを押しました。望遠レンズなど持っていないのでこれが精いっぱいでした。美しい光景と北の国の春の様子は下手な私の写真以上に辺りに満ちていました。車に乗る前に芭蕉と曽良を思い出しながら句碑を回りました。2015.05.11
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白河の関の芭蕉の句碑 |
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平安の歌人達も通った白河の関ですが如何にも平安まで時を遡ることは遠く感じます。私にはこの旗宿にある白河の関に立つと芭蕉と曽良の姿が浮かんでくるのです。関の近辺には芭蕉の句碑が見られます。左は駐車場の前、右は平成元年に、旗宿の外れに集められた石碑群の前に建てられたものです。2015.05.11 |
西か東か先(先ず)
早苗にも風の音 |
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芭蕉・曽良の旗宿滞在 |
この辺りでは地境に野生のうつぎを植える慣わしがあったそうです。そしてこの白いウツギは”ヒメウツギ”と言われるもので幾らでも増えるために芽を見つけては雑草と一緒に抜き取るのだと聞きました。そうであれば、自然がもっと残っていた芭蕉の頃は現在より白河の関の近辺には多くの白いヒメウツギの群生が見られたと思います。更に、春の黄色の花の時期から、この季節は白花が目立つ時期になるのです。同じ季節に白河の地を訪れて、芭蕉が書き残すほどの”雪にもこゆるここち”と言う白花への強い印象を私も共有することが出来たように感じたのです。心が満たされた卯の花月(数日の遅れをご容赦ください)の旅でした。うつぎの項は2008.06.23
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元禄二年(1689年) 芭蕉・曽良白河滞在表 |
旧暦 |
新暦 |
場所 |
4月20日 |
6月7日 |
朝8時に那須湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出て旗宿に泊まる。芦野に立ち寄りながら、一日で歩いたのです。 |
4月21日 |
6月8日 |
白河の古関を探す。関山・満願寺に登り参拝、後、白河城下の中町・左五左衛門に立ち寄る。矢吹に泊まる。 |
*別冊の”そば(近所)の奥の細道”のデータです。素人の知識ですので間違いがあるかもしれないことをお知らせいたしておきます。芭蕉と曽良が訪れた卯の花の季節は後僅かです。白いウツギの花の咲く頃高原の町を訪れる事が出来る事を祈っています。
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04/17/2021 |
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