庄内・鶴岡市に藤沢周平作品の場所を訪ねて・その① 

藤沢作品の沢山の主人公達が鶴岡の町に生き生きとした姿でたちあらわれます
海坂藩の物語は絵空事からあたかも事実であったものへと、私は傍観者から当事者へ
まことに夢心地の楽しい訪問でした。

他の藤沢作品の舞台への旅

『密謀』をポケットに:1980~81年の新聞連載・当時の会津の太守・上杉景勝、直江兼続の物語

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深川を訪ねる:沢山の物語の舞台となった隅田川と深川、小名木川・万年橋が特に多い。
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①庄内への旅の目的
今回の庄内への旅の目的には①芭蕉の跡を辿って月山に登る②藤沢周平作品の町、鶴岡を訪ねるの2つがありました。とりあえず月山は登ったのですが思ったより時間が掛ってしまい、羽黒山を訪れる時間がなくなりました。鶴岡市で藤沢作品の場所を案内してくれるボランテイア・ガイドの方と午後1時に市役所で会うことになっています。柔らかな庄内の言葉を話す女性のガイドの方でした。物語の中と同じ言葉で説明いただく色々な場所を目にして私は興奮してしまいました。作品に登場する人々が私の頭の中にリアルな姿で浮かんでくるのです。興奮はまるで物語の登場人物のような気分になったからなのです。私は傍観者から当事者になるのです。
②月山から鶴岡市内へ
山から下りた汗まみれの体では失礼と、とりあえず途中で鶴岡市内の『ユポカ』と言う温泉に入って行くことにしました。大慌てでお湯に飛び込みカラスの行水のごとく体を洗って歯を磨いてひげを剃り飛びだしました。素晴らしい大きな露天風呂と浴槽、それで¥350とは風呂屋さん並みの料金です。道に迷いながらもなんとか1時に市役所に駆け付ける事が出来ました。

写真のパンフレットはガイドの方から頂戴した藤沢周平作品の場所が示された地図で今では私の宝物です。ちなみにこの刀は『又蔵の火』の中で土屋虎松(又蔵)と土屋丑蔵が戦った時に実際に使用したもので刃こぼれが見られます。2009.09.28

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旧鶴岡印刷株式会社

藤沢周平は1942年旧山形県立鶴岡中学校夜間部に入学、昼はこのビルにあった鶴岡印刷株式会社(現在は違う会社になっています)に勤務します。そこは内川(五間川)がすぐ横を流れ、鶴が岡城跡、つまり鶴岡市の中心街です。

個人的な趣味としては作者の個人的な生活は知りたくない気がしています。どのような人生を送ったかに興味があるのではなく、面白い作品に首まで漬かりたいのです。

生活を知ってしまうと物語を読むときにバイアスが掛り面白みが減じられそうでもったいないのです。物語に無垢な気持ちで入って行きたい、そう思っています。とは言っても、物語には人柄の影が現れざるをえません。藤沢作品から感じる人柄は多くの人と同じです。物語の場所を訪ねるのは楽しいのですが、生誕地を訪ねるのは躊躇してしまいます。五間川が生活の場であった事は物語を読む一つの鍵を得たような気がします。そして多くの江戸の物語は川の町・深川、作者の流れる水への愛着を感じるような気がするのです。

五間川(実際の名前は内川)・三雪橋

五間川(内川)に掛かる赤い欄干の三日町橋(現在は三雪橋)。江戸後期の絵地図では三日町通りには多くの人々の往来する姿が描かれています。もしかして『義民が駆ける』のモデルとなった天保義民の騒動が成功裏に成就したとき町の人々が『お座りじゃ』と酒を振舞い狂喜乱舞した時代の地図だったのでしょうか。

車を市役所の駐車場に入れました。市役所でお待ちいただいていたガイドの方が、庄内の柔らかい言葉で道案内をいただき最初に案内してくれたのがこの五間川です。藤沢周平の多くの作品に登場する舞台がいきなり私の目の前に現れてきました。

興奮して地に足が着かない気分です。深川も藤沢作品の主たる場所ですが馴染みでないわけではありませんので心躍りますがこれほど興奮することはありせん。この川を思い出しながら作品が作り出されたのです。鶴園橋より。

この時は小雨が水面に小さな波紋を描いています。川藻が流れ数羽の鴨が泳いでいました。やがて雪が降りそして花が咲き蛍が飛んで一年が回ります。

庄内の物語は季節の思い出を織り込みながら濃密に展開していくのです。『蝉しぐれ』の文四郎がおふくを庇いながら船で通ります。後は千歳橋です。

 

上段の古地図には鶴ケ岡城に通じる三日町橋(三雪橋)に木戸が描かれています。
『用心棒日月抄』の『孤剣』では主人公の青江又八郎が間宮中老に笄町のはずれ、五間川が大きく東に蛇行する料理屋に呼び出されます。人気者の左知がいずれ帰るのも海坂藩でしょう。尼となった左知と又八郎がお茶を飲みながら思い出話、想像はとめでどもなく広がります。
五間川が私をこれほど興奮させるのは武士を主人公にした物語では頻繁にこの川の景色が登場するからです。
『静かな木(新潮文庫)』では布施孫左衛門が五間川の河岸から目にする欅の大木に人生を重ねます。
『玄鳥(新潮社)』の「鷦鷯(ミソサザイ)」では普請組に仕える新左衛門が気鬱の小頭・細谷甚太夫を取り押さえる為に仲間と五間川を渡ります。
『神隠し(新潮社)』の「小鶴」では激烈な夫婦喧嘩で悪評の神名吉左衛門。「今日は五間川の石垣の見回りに行ってな」と言いながらかぐや姫のような美貌の小鶴を伴なってくる。
『龍を見た男』の中の「切腹」では筆頭家老・小出作摩に「丹羽は直言を好むそうだな?」と言われた主人公の丹羽助太夫が、普請組として五間川下流部の堤防工事を行っています。絶交の旧友甚左衛門とのそっけない情の通い合いが心にしみわたる物語です。

『時雨みち(新潮文庫)中、「山桜」は多くの藤沢周平短編集の中でも私のベスト10の上位に入る大好きな物語です。このような物語を読むと、世俗にまみれて生きる私の姿を映す澄んだ鏡を差し出されたような気持ちになるのです。そして熱中する程に澄み渡った鏡の中に一時とは言え私の心を引き込んでくれます。ですから、鶴岡の町を流れる五間川の川岸に立てば更に現実味を帯びた物語となるのです。

主人公の手塚弥一郎は五間川の河原にある剣道場の壁の隙間から、17歳の野江を見てその時から好意を持っていたのです。個人的には藤沢作品の中で最も桜が効果的に描かれた物語の一つではないかと思っています。桜を見ると何時でも「かいわそうなひと(私)」とつぶやく野江の心が胸に浮かんでくるのです。

物語では寺からの帰路遠くに見える桜の枝を折ろうとあられもない格好をしている主人公。“浦井の野江どのですな”と手塚弥一郎に声をかけられる場面があります。
遠くから見て手が届くと思った桜の枝がはるか高い所にあるのです。枝を手折ってくれた弥一郎は聞くのです”今は幸せか”と。二度の恵まれない結婚の末に、心から案じてくれていた弥一郎の真心にすがって桜を持って家を訪ねるくだり、桃色の桜が物語に大きな彩りを与えてくれています。
その家は藤沢作品ではお馴染みの五間川を渡った禰宜町にあります。

総穏寺・『又蔵の火』文春文庫

文化八年(1811年)9月22日、総穏寺に於いて土屋虎松が兄の仇、土屋丑蔵と死闘。丑蔵が虎松(又蔵)の志に感じ相討ちを申し出て互いに刺し違えて果てたと言う史実の銅像が建っています。戦時中供出された為に再建されたとの事です。

像の下の碑文です。土屋丑蔵が剣創14箇所、虎松(又蔵)が8箇所と見えます。体中の血が抜け出るのではないかと思うほどのすさまじい切りあいの様子が本の中でも書かれて居ます。

ここに至り『始末をつけねばならん。土屋の家の対面を傷つけず、おぬしの意趣もとおる結末をな』と土屋丑蔵は虎松(又蔵)に言うのです。物語のクライマックスになります。

藤沢作品初期のシリーズの一つで史実の仇討ちを元に人々の心を見せてくれます。又蔵の火に納められた他の5篇を含めて共に大変暗く理不尽な話に思えるのです。このシリーズの中では『帰郷』が個人的に好みです。

本の表題となっている『又蔵の火』も私の心で何故か物語が落ち着きません。土屋丑蔵への仇討ちは極めて理不尽ではないかと言う思いが何時までも消えないのです。土屋の面汚しとして討たれた兄にかわって、一言いうべきことがある、火のように体を貫いた復讐心と書かれた又蔵の心象風景が実感として受け入れられないのです。
尚、土屋虎松は江戸での剣術道場住み込み時には又蔵と呼ばれています。

門前から続いた激しい戦いはこのあたりを移動しながらこの本殿の左手で互いに刺し違えて果てます。そこに土屋両義士刺し違いの処(最後の文字が難解で読めません)の石碑が立っています。

土屋虎松・土屋萬次郎の墓がありました。

←刺し違えた場所の近くに土屋丑蔵の墓(写真左)

物語の中での両者を比べれば、個人的には土屋丑蔵の命の処置が武士らしく感じれて仕方がありません。

料亭三浦屋・『三屋清左衛門残日録』文春文庫

隠居した清左衛門が友人の町奉行・佐伯熊太としばしば訪れる料亭のモデルだそうです。物語では町の南・花房町にある小料理屋『涌井』として登場します。おかみの『みさ』は30前後、肌が綺麗で目に険がある。鎖骨が出ているので美人とは言えないが男好きのする女と書かれています。

大雪に行きくれて、一夜涌井で夜を過ごし『みさ』とおぼろげな時を過ごす話を私は好みます。生きの良い魚を食べさせるのが評判の涌井、町奉行は『この赤蕪はうまいな』『クチボソ(マガレイ)か。うまそうだな』と物語の中では叫んでいます。

『涌井』は文中では花房町になっていますが、鶴岡市の旧七日町、現本町2丁目付近のことだと推測され、昔は一部に遊郭があったそうです。モデルの三浦屋の住所は鶴岡市本町2丁目10-11。

物語に縁のある場所にはこのような看板が掲げられています。木造3階建ての美しい家の姿に感動してしまいました。

『みさ』が清左衛門を送って出てくる情景を思い浮かべみたのです。

染川町(現双葉町)・蝉しぐれ(文春文庫)

その夜の五つ半(午後九時)文四郎は染川町の妓楼『若松屋』の一部屋で目を覚まします。そばに10程年上の太った女が寝ていたのです。文四郎は女と寝る事をもっと特別な神秘的な行為と考えていたのです。後悔と虚しさが胸をふさぐのです。

誤解のないように申しておけば、現在このあたりは物語のような雰囲気は全く感じなられない立派な家が立ち並ぶ住宅街です。

『夜の橋(中公文庫)中、私の大好きな「泣くな、けい」では相楽波十郎が妻・麻乃の密通相手であり藩家宝の短刀を掠め取った中津清之進を染川町に誘い出すのです。「しかし、珍しい。相良が誘いをかけるなどというのは、まったく珍しい」と嘯くのです。

けなげとしか言いようのない十八歳の「けい」は骨董屋を経て隣国の神保七兵衛に売られた短刀を求めて、謹慎中の波十郎に代わり遠く江戸まで出かけます。刀を取り戻したけいは髪は乱れ着物は汚れ、体からは異臭をはなっています。「だんなさま、お刀をとりもどして参りました」、けいはまぎれもない藤沢作品の娘です。

庄内藩校・到道館

庄内藩の藩校です。今日は定休日で内部を見ることができません。重厚な建築物に見えます。鶴岡市役所の直ぐ前にあります。

物語の中にも幾度と無く藩校は登場してきます。『蝉しぐれ』でも親しい幼馴染の与乃助が江戸から返って講義をします。

五間川(内川)・鴨の曲り『蝉しぐれ』(文春文庫)

五間川の上流部の大きな湾曲部分です。現在は家が立て込んで極めて即物的な景色です。しかし想像力さえ働かせれば『蝉しぐれ』の嵐の夜、激流の渦巻く五間川、文四郎の父・助左衛門の姿が浮かんできます。「切開の場所を上流の鴨の曲りに変更していただきたい」と叫びます。金井村の10町歩の稲を助けた父・助左衛門を文四郎は「おやじはすごいな」と思うのです。

鶴ケ岡城址

天守閣のなかった鶴ケ岡城は一部の石垣を残しているだけです。ガイドの方が『酒井の殿様』と呼んだのには驚いたのです。江戸時代からの善政を(もちろん搾取される側からみて、苛烈な統治の藩に比べてでしょうが )を少なからず良とする雰囲気が残っている町なのだと思いました。おっとりした感じは比較的豊かな産物と緩やかな統治にも因が有るのでしょうか。

武士達は門をくぐり城内へ、町人達は畏敬の目で城を眺めます。多くの人々が行きかったこの城で生まれたであろう出会いを絡みあわせて創作された、たくさんの藤沢周平の『海坂藩』物語の人々がリアルな姿で私の前に立ち現れます。

物語は剣術の試合であり、政争であり、些細な雑事でありと多岐にわたります。城跡を見ていると物語の一人ひとりの侍達の背中が見えたような気がするのです。

表題が『たそがれ清兵衛(新潮文庫)』の中の小禄の武士達、例えば下城の太鼓と共に城を出る清兵衛。『ごますり甚内』の中の川波甚内が登城の道で上役の重い火鉢を顔を真っ赤にして運びます。『祝い人助八』の伊部助八は垢じみた姿で登城、殿様に『におうのは助八か』と言われ面目をつぶします。

『冤罪(新潮文庫)』の中の『証拠人』佐分利七内が多くの浪人と共に召抱えの列に並んでいます。『へそ曲り新左』では「治部の小父さま、ここです」と呼びかける佐久を城門から助け出す。この城跡に立つと物語の人々の姿が真実味を帯びて思い出されます。

『花のあと(文春文庫)』の「以登女お物語」二の丸に桜、以登に語りかける江口孫四郎。桜の花びらが堀に落ちるその光景がはっきりとした実像になって浮かんできます。

『玄鳥(新潮文庫)』中の個人的に大好きな「三月の鮠」では窪井信次郎が藩主臨席の二の丸における紅白試合で惨めに敗北する。政争で一家を殺害された早春の渓流の鮠のような娘「葉津」、信次郎との再会では目に涙を盛り上げるのです。

武士たちは鶴ケ岡城にほぼ毎日登城することになりますから、五間川を渡ります。藤沢作品の武士達の多くの物語には五間川と鶴ケ岡城が頻繁に登場する事になります。スペースの関係ではその一部を掲載しました。

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03/15/2014
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