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隅田川と小名木川の合流する地点は芭蕉庵の跡地と言われる、芭蕉稲荷があります。その傍に芭蕉記念館の分館として史跡庭園となっており北を見つめる芭蕉像と多くの説明板が設置されています。芭蕉がたったであろう同じ地面と景色に囲まれてこれらの説明を読むと、強い力で心が打たれます。芭蕉の背景を知るには優れた参考書です。説明の板が反射して上手く写真がとれませんが、文章を含めて抜粋してみました。説明は画像の横に文章が付いていますが、画像と説明の文章はわけてあります。自らの理解を整理するためにこれらの説明に基づいて年表を作って見ました。もしかして誤りがあるかもしれませんが、徐々に訂正を行なってまいります。
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芭蕉庵再興集(1771)
明和八年(一七七一)に大島蓼太(りょうた)が、芭薫百回忌取越追善のため、深川要津寺(ようしんじ)に芭薫庵を再興Lた。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の國である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀つた。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)。 (学習院大学蔵) |
芭蕉文集
(1773)
安永二年(一七七三)に小林風徳が編集出版した『芭薫文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く、以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇穂(ぎとく)で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。
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深川八貧図(1793)
蝶夢(ちょうむ)編の芭蕉翁絵詞伝の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄二年(一六八八)十二月十七日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠(たいすい・依水(いすい)・泥芹(でいきん)・夕菊(せきぎく)・友五(ゆうご)・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まりまリ、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で『米買に雪の袋や投頭巾』と詠んだ。絵はその場面を描いている。 (義仲寺蔵)
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芭蕉翁絵詞(えことば)伝
(1793)
蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環とLて芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に任立て義仲寺(ぎちゅうじ)に奉納した。その絵を吉田偃武(えんぶ)に縮写させ、寛政五年(一七九三)に刊行した。図はその一齣で葭(よし)垣・枝折戸をめぐらLた草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ、笠は竹の骨に紙を貼リ重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。
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埋木の花(うもれぎのはな)(1826)
明和八年(一七七一)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから五十五年後の文政九年(一八ニ六)に、平一貞がその著、埋木の花に実見記録Lたもの。「古池や」の句碑は、安永ニ年(一七七三)に深川材木町(現佐賀町)に佳んだ書家三井親和の筆。現在江東区・芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。
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俳諧悟(さとり)影法師(1837)
天保八年(一八三七)に鶏鳴舎一貫が著した 『俳諧悟(さとり)影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斉は、浮世絵師絵師池田英泉である。構図は安永ニ年(一七七三)刊、小林風徳編『芭焦文集』所載の図とそっくりだが、描線はるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。
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芭蕉翁略伝(1845)
天保十四年(一八四三)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざの行事があったが、幻窓湖中(げんそうこちゅう)は編年体の芭蕉伝記芭蕉翁略伝を書き、西巷野巣(せいこうやそう)校合を得て、弘化二年(一八四五)に刊行した。本図はその挿絵で茅屋(ぼうおく)に芭蕉・紫門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。 |
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俳人百家撰(1855)
江戸の緑亭川柳が安政ニ年(一八五五)に刊行した『俳人百家撰に掲載する図である。絵は、天保五〜七年(一八三四〜一八三六)に刊行された『.江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が古地や』の句を詠んだ吉池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。 |
深川芭蕉庵
雑誌ホトトギス明治四十二年十二月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応二年(一八六六)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建原画をもしゃしたものであるという。従って本図の原画は一九世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、芭蕉庵再興集所載図の土橋と似たところがある。
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