深川七福神とその界隈・そのD芭蕉の地2・出立

深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。俗を捨てて孤独な精神世界の中に沈み込んでいった場所、いわば奥の細道のゆりかごの地でもあります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。尚、関の細道のB追分の明神は現在製作中ですのでリンクは動いておりません。

このウエッブ・サイトでは、”村を歩く”の中で、暮す村の近くに関連する”奥の細道をたどる”を掲載しています。

田村神社十念寺相良等窮かげ沼乙字ケ滝

関の城下町追分の明神白河の関境の明神遊行柳殺生石二宿の地

奥の細道への歌枕の旅への思いに心が騒ぐ芭蕉。馴染んだ深川・芭蕉庵を人に譲り、深川元木場の弟子・杉風(さんぷう)の海辺橋南詰にあった別荘・採茶庵より奥の細道へと旅立ちます。雨の上がった、元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)の早暁の事です。同行は弟子の曽良、多くの見送りと名残を惜しんでの出立です。”月日は百代の過客にして・・”としたためたごとく、死をも覚悟しての旅立ちだったでしょう。芭蕉の言葉のごとく、生きた痕跡の殆どは過ぎ行くものとして消滅してしまいました。アメーバーのように人々の心を捕らえ人から人へと伝播して残った”奥の細道”は、今に至るも読む人々が芭蕉の心との交流を楽しんでいます。そこに芭蕉は存在し確かに生きて居るのです。従礼する者のごとく、芭蕉の地を訪れる人は絶えません。2008.2.4 12、一部2008.2.4、2008.4.1
小名木川と隅田川の合流地点にたつ芭蕉像。俳句に付いての知識は藤沢周平の”一茶”を読んだ程度の貧弱なものです。芭蕉がどうかは知りませんが、一茶は江戸や村の資産家知識階級の庇護が生活の支えであったことが語られています。大量の句は、生活の資金を得るために旅をせざるを得なかった一茶の(自尊心をどぶに投げ捨てての)凄まじい旅する生き方から生まれたものであることが分かりました。炬燵に座って言葉遊びをしていたわけではなかったのです(この俳句についての誤解・無知蒙昧を心底から詫びなくてなりません)。

芭蕉の出立も旅での死を覚悟したものであり、それでも先人達に詠まれた歌枕の地に立ちたかったのでしょう。人生50年、せまる死の断崖に面しての滾る情熱に惹かれます。

一 江戸・深川

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲(へんうん・ちぎれ雲)の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず。海浜にさすらへて、去年(こぞ)の秋江上の破屋(隅田川縁のあばら屋)に蜘(くも)の古巣をはらひてやゝ年も暮れ、春立る霞の空に、白川の関こえむと、そゝろ神の、物につきてこゝろをくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゝり、笠の緒付かへて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まず)心にかゝりて、住る方は人に譲りて、杉風(さんぷう・弟子)が別墅(べっしょ・別荘)に移るに、草の戸も 住替る代ぞ ひなの家 面八句を庵の柱に懸置(かけおく)。

二 出立
弥生も末の七日、明ぼのゝ(明け方)空朧々(ろうろう・薄ぼんやり)として、月ハ有あけ(有明の月・空に残る月)にてひかりおさまれる物から、不二の峯幽(かすかに)にみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆと(足立区・千住)云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝぐ。   行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初(旅の出立の始りの句)として、行道猶(なほ)すゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのミゆる迄ハと見送なるべし。 三月二十七日(新暦五月十六日)
芭蕉記念館
新大橋と小名木川合流点の中間あたりの隅田川端にある芭蕉の記念館です。地下鉄・大江戸線又は新宿線の森下駅から7〜8分。旧宅の一つと言われている芭蕉稲荷から出てきた石のかえるが見られます。
隅田川に面した築山の上に藁葺き屋根の小さなお堂、芭蕉の像が安置されています。 小さいながら、常緑樹を主体とした庭園の木々にちなんだ芭蕉の句が添えられています。
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家(元禄2年・1689) 川上とこの川下や月の友(元禄6年) ふる池や蛙飛びこむ水の音 (承久3年)
芭蕉旧宅と言われるこの稲荷の説明板。画像をクリックすると拡大図が開きます。 『古池や蛙飛びこむ水の音』の句碑。芭蕉記念館の説明文にもこの句碑の記載がないので近年新しく建立したものかもしれません。

写真を拡大してみましたが”古池や・・・”の文字が読めます。後日確認してみたいと思います。

旧宅跡の石碑。この地から芭蕉愛玩の伝承がある石の蛙像が出てきた。

左・奥の細道旅立ち300年、右・芭蕉記念館此より150米の道標。

芭蕉に関連する句碑・史跡などの多くは、西は隅田川・南は小名木川に囲まれた狭い地域にあります。都営地下鉄大江戸線か新宿線で共に森下駅で下車。新大橋方面に出てください。新大橋から隅田川おりて”大川端芭蕉句碑”を見ながら川風の中の散歩を楽しみながら記念館まで直ぐです。帰路は万年橋を渡り、霊願寺、海辺大工町、高橋など物語に登場する場所を見ながら大江戸線清州白河駅に出ると良いでしょう。左の地図はクリッカブル・マップになっています。ご覧になりたい場所上でクリックしてください。
芭蕉記念館分館・史跡庭園
隅田川と小名木川の合流する地点は芭蕉庵の跡地と言われる、芭蕉稲荷があります。その傍に芭蕉記念館の分館として史跡庭園となっており北を見つめる芭蕉像と多くの説明板が設置されています。芭蕉がたったであろう同じ地面と景色に囲まれてこれらの説明を読むと、強い力で心が打たれます。芭蕉の背景を知るには優れた参考書です。説明の板が反射して上手く写真がとれませんが、文章を含めて抜粋してみました。説明は画像の横に文章が付いていますが、画像と説明の文章はわけてあります。自らの理解を整理するためにこれらの説明に基づいて年表を作って見ました。もしかして誤りがあるかもしれませんが、徐々に訂正を行なってまいります。
芭蕉庵再興集(1771)
明和八年(一七七一)に大島蓼太(りょうた)が、芭薫百回忌取越追善のため、深川要津寺(ようしんじ)に芭薫庵を再興Lた。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の國である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀つた。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)。 (学習院大学蔵)
芭蕉文集
(1773)

安永二年(一七七三)に小林風徳が編集出版した『芭薫文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く、以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇穂(ぎとく)で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。

深川八貧図(1793)
蝶夢(ちょうむ)編の芭蕉翁絵詞伝の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄二年(一六八八)十二月十七日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠(たいすい・依水(いすい)・泥芹(でいきん)・夕菊(せきぎく)・友五(ゆうご)・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まりまリ、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で『米買に雪の袋や投頭巾』と詠んだ。絵はその場面を描いている。  (義仲寺蔵)
芭蕉翁絵詞(えことば)伝
(1793)

蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環とLて芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に任立て義仲寺(ぎちゅうじ)に奉納した。その絵を吉田偃武(えんぶ)に縮写させ、寛政五年(一七九三)に刊行した。図はその一齣で葭(よし)垣・枝折戸をめぐらLた草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ、笠は竹の骨に紙を貼リ重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。

埋木の花(うもれぎのはな)(1826)

明和八年(一七七一)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから五十五年後の文政九年(一八ニ六)に、平一貞がその著、埋木の花に実見記録Lたもの。「古池や」の句碑は、安永ニ年(一七七三)に深川材木町(現佐賀町)に佳んだ書家三井親和の筆。現在江東区・芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。

俳諧悟(さとり)影法師(1837)

天保八年(一八三七)に鶏鳴舎一貫が著した 『俳諧悟(さとり)影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斉は、浮世絵師絵師池田英泉である。構図は安永ニ年(一七七三)刊、小林風徳編『芭焦文集』所載の図とそっくりだが、描線はるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。

芭蕉翁略伝(1845)
天保十四年(一八四三)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざの行事があったが、幻窓湖中(げんそうこちゅう)は編年体の芭蕉伝記芭蕉翁略伝を書き、西巷野巣(せいこうやそう)校合を得て、弘化二年(一八四五)に刊行した。本図はその挿絵で茅屋(ぼうおく)に芭蕉・紫門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。
俳人百家撰(1855)
江戸の緑亭川柳が安政ニ年(一八五五)に刊行した『俳人百家撰に掲載する図である。絵は、天保五〜七年(一八三四〜一八三六)に刊行された『.江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が古地や』の句を詠んだ吉池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。

深川芭蕉庵

雑誌ホトトギス明治四十二年十二月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応二年(一八六六)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建原画をもしゃしたものであるという。従って本図の原画は一九世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、芭蕉庵再興集所載図の土橋と似たところがある。

史跡公園説明板右写真・説明板から年表を作成)
1680 廷宝八年 当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ
1680〜1682 延宝八年冬〜天和二年暮 江戸大火災に類焼するまでのあしかけ三年をここに住む
1683 天和三年・冬 友人・素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、本番所「森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵建つ
1689 元禄二年 深川芭蕉庵を手放し奥の細道出立、3月27日(新暦5月16日)
1692 元禄五年 第三次芭蕉庵が建つ
1680〜1694 廷宝八年〜元禄七年 1694年江戸を出立・同年没する。1694年まで深川に於いて十五年間、三次にわたる芭薫庵が営まれた
1697 元禄十年 松平遠江守の屋敷となり、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである
6/5/2008
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霊巌寺芭蕉の地万年橋富岡八幡