藤沢周平 密謀をポケットに入れて その舞台を歩くC関山

市川房綱と山浦影国の2将を配しています。文中から理解するに指呼の間にある白河城とあわせて15,000の兵を伏せたと思われます。

後日関山に登った折に満願寺にある説明碑文に、古道は南側の稲荷神社がある道であったと記載されていました。芭蕉がそこから登ったとも書かれていました。上杉軍の話は芭蕉以前の物語です、もしかしたら南にある古道から登ったのかもしれません。ちなみに此処に書かれた関辺の道は北側になります。調べてから誤りがあれば訂正いたしますが、この道が今最も頻繁に利用されていますので、密謀の地を訪ねる道としては一番の選択であろうとは思います。

関山(せきさん)は白河城の東方、棚倉方面に向かう289号線の右側に見える標高618.5メートルの綺麗な姿の山です。頂上には730年(天平2年)行基が開山したしたと称される関山・満願寺がたっています。秀麗な姿の独立峰ですので頂上からは四方が見渡せます。上杉軍が陣を布いた場合、徳川軍の動きがはっきりと掌握できます。頂上まで車で上がれそうですが小型の四厘駆動でないと難しいかもしれません。歩いて登っても40分ほどです。
関山登山口へ向かう途中、懐かしい感じの道が続く。

芭蕉は奥の細道でこの関山に登り満願寺に参拝しています。

@関山は
白河市内の多くの場所から遠望されるランド・マークの一つです。周りの里山の中でもひときわ目立つシャープな姿が特徴です。後方を山で守られた麓の集落は落ち着いた懐の深い印象を受けました。ここに陣を布くことは守りと頂上からの偵察にも利点があります。又、東側に出る道と北上する奥州街道の押さえにもなる場所です。
A関山への道

関山は国道289号を少し入ったところに入り口があります。白河市街から289号を10分も車で走ると標識があります。右折します。この街道は棚倉を経て海へ抜ける重要な道路です。棚倉から水戸にも通じています。289号線から山に向かって3分ほどで入り口の標識があります(左上の写真)。そこを右折。

B関辺集落入口
標識の周りは野草の原、チョウチョが止まっていました。田んぼの中を通る狭い道になります。直ぐに人家が現れてきます。その家の竹やぶが日陰を造る(左の写真です)、往時もこうであったかと思わせる道が続きます。竹やぶが切れると関山登山口の石碑。ここを左折します。関辺という集落ですが、大きな立派な家が立ち並び豊かな村に見えます。

 

登山口からみた関山方向と関辺の集落。集落の前にはあいそ川の清流が流れています(上の写真の家の前を右から左へ流れています)。当時は飲料水にも使用できた事でしょう。多くの将兵が陣を布くには適した場所だったと思います。

石灯籠と赤いのぼり(上の集落の写真の左の場所と同じ)、遠くから見えるこのぼりはまるで上杉軍の旗に見えました。登山口への道端に長さ7〜8メートルのウメモドキの生垣がありました。生垣に使われたウメモドキを初めて見ました。透明な秋空から差す強い日差しに赤い実が、さらに赤味をまして輝いています。

村を流れるあいそ川を渡ると狭い砂利の道となります。2〜3分(道路入り口の木の標識から7〜8分ほど)で左に駐車場が見えます(右の写真)。6〜7台ほどしか止められませんが平日でしたので誰も止まっていません。駐車場から頂上まで車道が続いているのですが、普通の車では苦しいかもしれません。4輪駆動車なら大丈夫だと思いますが、雨の時などは無理をしないほうが良いでしょう。当時騎馬で視察した上杉景勝、直江兼続主従は馬(当時のまさに4輪駆動)で登ったと思われます。だらだら歩いても30〜40分くらいでしょうか。途中、上杉らしい不動明王の石像(脈絡もありませんが、密謀に関連しようと歩いていますので)と湧き水があります。
  頂上には鐘付き堂のある無人の満願寺があります。遠慮なく力一杯鐘を撞きました。ゴーンと言う音が空にこだましたようです。     頂上からの見晴らしはすばらしいものです、軍勢の動きが手に取るように見えたことでしょう。 帰路、健脚コース(目印には烏天狗とか書かれていました)と言う看板に誘われて違う道を下ってみました。上り下りの有る山道です。ロープが沢山張られた急な下り道を十分堪能しましたが、余りお勧めは出来ません。たしかに看板の通り強い筋肉を要求されました。下りる途中小さな沢を渡ります。石の下に居る沢蟹を見つけて子供達は大喜びです。最後のD鶴生・高助に向かいます。2007.10.24
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