藤沢周平 密謀をポケットに入れて その舞台を歩く・始まり
@旅の始まり

私は探偵の目を持つ旅人では有りません。この旅は歴史的事実との差異を調べるものではありません。できうれば直江兼続に従う小者として共にこの地を駆ける、そんな心持で歩きながら物語の中に身を置きたいと思いました。

小さな旅を終わって藤沢周平が十分こねて作り出した物語が立体的、現実的な姿で私の前に出現する幸せにめぐり合えました。尋ねる観光客も居ないごく普通の村々。そこに立って思うのは、直江兼続も見たであろう昔からの生活が変化しながらも静かにしかし着々と続けられて来たに違いないということです。訪れる人もまれな静寂の空間に立つと、村の出入り口に立つ路傍の幾多の石像にも愛着の目が向きます。神社仏閣を回って自らの素直な心を見た後の爽快な感覚、そして物語を確かに体感する幸せおも与えてくれた誠実な作者に、感謝する気持ちがあふれきています。

A藤沢周平『密謀』の地
新潮社 密謀下巻118ページ〜215ページ、特に208ページに関連した場所を巡った旅の話です。物語は謙信の家の誇りをかけて、上杉が天下に輝きを放った時代の話です。西の石田三成と北の上杉が徳川軍を挟み撃ちにすべく立ち上がります。尚、御読みいただく方は殆どが藤沢周平好き、上杉好き、直江兼続好きの方で読後であろうと思います。邪魔なだけになりますので、本の内容等の詳細にはあえて触れないことにしました。原作は1982年に書かれたものです。単行本は4年後に発刊されています。2007.10.24〜25
 
1600年(慶長5年)北上する徳川軍を迎え撃つ上杉軍、この地を決戦の場と見極める。上杉景勝が直江兼続以下と共に白河城を中心とした地を巡察し軍を布いたところにあたります。番号は私の回った順番を表しています。国道4号線から会津若松に抜ける会津街道、現在も福島県中通り地方から会津に抜ける重要な道路として使われています。

@の長沼、景勝が陣を布いた場所と言うことでしたが、田んぼが広がるのどかな集落でした。車を止めて見回しましたが、景勝の本隊が陣を布いたような雰囲気が感じられなかったのでほとんど立ち止まらずに終わりました。

狭かったA勢至堂(せいしどう)への登りはトンネルとなり随分楽になりました。旅人が喉を潤した殿様清水や勢至堂の部落は旧道となり、今は車の通りから外れた静かな集落が残っています。

B白河城は別名小峰城とも呼ばれる白河のシンボルです。綺麗に整備されており、入り口にはボランテイアの歴史案内人の方が居て有意義な話を聞かせてくれました。大変親切に教えてくれたので、貴重な時間を費やしてくれてと申し訳なくなるほどでした。

C関山(せきさん)は独特のとがった山頂が白河市内のあちこちから遠望することができます。麓を流れる綺麗な小川、田んぼ、そこには懐かしい日本がありました。

D鷹助(たかすけ)と鶴生(つるお)は500メートルほどしか離れていない小さな集落です。峠を一つ越えた北側に羽太の集落がありますが、ここは景勝主従が巡察の折に訪れた場所です。今回は2日を掛けて回って見ました。後日残りの幾つかを尋ねずには終われない程の楽しい旅でした。地図(クリッカブル・マップ)の印やのマークでクリックしてください。詳しい説明のページが開きます。

 
上杉軍の配置(白河城周辺)
@上杉景勝の本隊 長沼 旗本8,000
A新津続家、沢根高継、甘糟加賀 勢至堂(せいしどう) 将兵6,000
B安田能元、島津昔忠 白河城 将兵15,000
C市川房綱、山浦影国 関山(せきさん)
D本庄繁長、本庄出羽守義勝 鶴生(つるお・現在つりゅう)・鷹助(たかすけ・現在高助) 将兵8,000
羽太(はぶと) 上杉景勝・直江兼続らの家臣団30人程が騎馬で視察
1600年
1600年(慶長5年)上杉軍・徳川軍の行動(密謀に基づく)
月 日
徳川軍
上杉軍
6月16日 大阪城出立
6月27日 小田原
7月19日 秀忠軍将兵37500名江戸城出発
7月21日 家康軍将兵 31800名 江戸出発
7月22日 上杉景勝・旗本8000名と共に会津若松出発

3/6/2008       密謀スタート・ページへ
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