藤沢周平 密謀をポケットに入れて その舞台を歩く@長沼

県境の村から長沼へは、ほぼ那須連山の東側の麓を行くことが出来ます。地元の生活道路として昔から使われています。大まかに言えば、矢板から塩原、那珂川を越えて那須町を通り那珂川の支流の黒川を越えて福島に入る道です。かなり古くから使用されていた道ではないかと思います。栃木から白河を通り会津若松に抜けるには便利で最短のものではな密謀トップへいでしょうか(現在は塩原経由で会津西街道に出る道がありますが)。

道路標識の地点は、白河方面から会津街道(118号線)にぶつかる交差点です。右に須賀川、左に向かうと長沼を抜けて会津若松に向かいます。まっすぐ進むと郡山方面に向かいます。密謀の中で信夫口が出てきますが、郡山を超えてそこにもつながっています。

長沼は田んぼと山に囲まれています。ここに上杉景勝が旗本8000を従えて陣を布いた情景を浮かべてみました。会津街道のバイパスから村に入りましたが狭い道路で車を止めることがはばかられます。このあたりからは須賀川や郡山に通勤しながら農業を続けている人々が多いようです。これは日本のどこの村もほぼ変わらない生活だと思います。平日の昼間のメインストリートは静かです。最初の場所でもあったので、あわててしまい素通りに近い滞在でした。2007.10.24

@長沼への道

会津街道のバイパスから長沼に入る。この道は長沼の中に入るとT字路にぶつかります。途中に目立つような建物なども見当たりませんでした。

少し準備不足だったかもしれないと最初の訪問地で目立ったような小説のシーンが頭に浮かんでこないことを悔やんでしまいました。上杉景勝と8000の旗本の姿をこの空間に立って思いをめぐらしては見たのですが努力は無駄になるばかりです。ただ後ろを山に囲まれていることから考えて、守るには利点があるかという思いが浮かんだ程度でした。

A現在の長沼

あくまでも澄んだ秋の空と強い日差しが、田んぼの落穂を拾うような行為の無駄をはっきりと見せてくれた気がしました。どだい400年もたった今、その当時の面影を探すことは普通の生活を送る人々の村では無駄かとこれから先の旅に不安を抱いてしまいました。
一度村を出て一番上の写真にある田んぼと山の景色に出会ったときに、やっと上杉景勝と8000の旗本の姿がイメージとして浮かんできました。この広さと後背地の山並み、そして村の家並み、長沼を遠望する地にたって作品の中を杖ひいて旅する事が出来そうな予感がしたのです。

 

(後日談)
@街に帰ってから・・・
街に帰ってからこの話を書くために幾つかの物事を確認しておりました。そんな折に、郡山国道事務所のホーム・ページ”コンパス”で長沼の事が少し分かってきました。
A長沼への旅のきっかけ
旅の始まりのきっかけは”密謀”に登場する現地を見てみようと思っただけでした。藤沢周平の創作である物語は、文字を目で追うだけでもそれは楽しい時間を過ごすことが出来ます。それならその場所にこの足で立ってみたら楽しみが増すだろうと思ったのです。出発前は歴史的事実は私にとっては2次的なものでした。ただ、今はそれがきっかけで物語を少し離れて歴史的な事実を知る興味が涌いてきました。それは大変楽しい経験となっています。そこに導いてくれた”密謀”の作者に感謝する気持ちは更に深くなりました。

 

B郡山国道事務所のサイト『コンパス』
国道事務所の記述によると長沼には長沼城があり、戦国時代には会津の芦名氏と須賀川・二階堂氏が激戦を交えたとの事です。秀吉が白河城に奥州仕置きのために北行してきたときは、時の長沼城主・新田上総介が出迎えに出たと言われているようです。その後幾多の変遷をへて”密謀”の時代には街道一の宿場町として栄えたそうです。今でも長沼城の跡が公園として残っているとか。この話を読んで上杉景勝が旗本8000と陣を布いた藤沢周平の話は(創作でも十分楽しいのですが)私の心の中で更に光を帯びてきたのです。次の機会には是非訪ねてこの文章を改定するつもりです。
C白河街道
その中でこの街道を白河街道と呼んでいます。白河城の表示板には会津街道とたしかに称されていました。多分同じだと思いますが(白河が会津の支城の位置を脱したことに関連があるのでしょうか)これも宿題として調べてみようと思います。何分にも仕事休みにしか行動が出来ません、それが何時になるなるかは分かりませんが。2007.10.24

 

長沼(千代牛臥城)への再訪2008.3.4
前回は最初の訪問地だった長沼(現在は須賀川市と合併しています)、後から調べてみると如何に無知であったかと恥じ入ります。上杉景勝が陣を敷いた地に、再度訪れて見たいと思っておりました。20年3月4日、雪が道に残りますが、風の冷たさがいくらか和らいだので出かけてみました。長沼城の遺構は長沼小学校横の急峻な小山に在りました。左の看板には確かに1598年から上杉領となり、関が原の戦いでは長沼城が全線基地になったと記されていました。やはり藤沢周平の物語は史実を踏まえたものであったことが分かりました。確かに上杉景勝は私が今立っているこの地に居たのです。

旧市街地に面した城跡の駐車場正面、各種の石碑が林立している。遺構の山はかなり急な斜面だ。

城の最上部はかなり広くなっていてお宮があります。多分ここに上杉景勝が居たのでしょう。

頂上への登り口ですが、結構急峻で長い坂道です。写真では急斜面が表現されていません。

上り坂の途中から見た長沼の町。

頂上からは、会津街道を走る車がしっかりと確認できます。右に勢至堂を経て会津若松、左は白河・小峰城方面になります。ここから見ると、この長沼城の戦略的重要性がはっきりと理解出来ました。

徳川軍が万が一、白河周辺での戦いに勝利して会津に進軍してきた時には、この地が最大の激戦地になるに違いありません。ここで敗れると一気に勢至堂を越えて会津城の本丸まで攻め込まれるでしょう。

ここは斜面の中腹にある平坦地です。今はベンチが置かれています。春にはこの小山が桜で埋まるそうです。

石背国造神社(いわせくにっこじんじゃ)
ここには長沼城の歴史や図面などの古い記録が残されているようです。

貴重な古文書類が石背文庫として保管されていたようです。神社のたゆまざる尽力もありましょうが、それを影から支えてきた町の経済力も備わっていたのだと思いました。宿場町として栄えたという話が理解できました。

メイン・ストリートは城下町の常でT字路になっています。城を探しながら進むと町のはずれで、落ち着いたすばらしい雰囲気の神社・石背国造神社がありました。神社の境内は左に曲がっていて本殿は見えません。

国造に関係すると伝承される国造戸上神社と、諏訪大明神分身を遷したと伝承されるこの地の諏訪大明神神社の二つが合祀されて、明治四年石背国造神社となったそうです。明治時代に大火があり被災の後再建されたにしては、歴史を感じさせるたたずまいです。国造(くにのみやつこ)は、、大和朝廷に服した地方の長たる者(地方豪族)の律令以前の官名又は姓(かばね)ですが、だとするとこの国造戸上神社の歴史はかなり古いのではないでしょうか。
これは本殿です。風格を備えた美しい社殿です。手を合わせて祈りました。右側に白壁の土蔵がありました。これが古文書類を保管していた蔵かも知れません。次の訪問地、勢至堂に向かいました。 神社の一部なのかどうかはわかりませんが、少し崩れかけた土壁の美しさに引かれて撮影しました。
3/23/2008            密謀スタート・ページへ   
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