藤沢周平をポケットに入れて その舞台を歩くD鶴生・鷹助・羽太

本庄繁長、本庄出羽守義勝と将兵8,000密謀トップ

白河方面から来て阿武隈川を渡ります。写真中央、木立の中に遠く@鶴生が見えます。この道の先にA鷹助があり道は那須連山に阻まれ行き止まりとなります。右に連なる里山を超えるとB羽太の集落に至ります。数字の順番に集落を訪れました。

@鶴生布陣の目論見
兼続の陣の後詰、更に徳川軍の側面への攻撃と二つの目的を考えました。兼続が押されて後退すれば徳川の大群は那須連山の西から景勝の本拠地である会津に、東から上杉の本隊にと作戦を選べるのではないか・・・などと軍師になったつもりで兼続の考えを探りました。
A鶴生の地勢について
ここは白河の西方、阿武隈川左岸の村々にあたります。ここに兵を置いたことは藤沢周平の策か直江兼続の策か、興味深い作戦だと思いました。ここは那須連山の麓にある集落ですが、昔の人々の健脚ぶりは現代人の想像を絶するところがあります。私のわくわくする推理は直江兼続との連動を強く感じます。兼続が陣を布いた鬼怒川近くの地からこのあたりまではかなり近いと感じられます。現に戊辰戦争の折には那須山を越えた西側の三斗小屋温泉近辺でも戦いがありました。
@鶴生(つりゅう、但しつるうと聞こえます)

この3つの集落の中では最も白河に近い場所にあります。阿武隈川が近くに流れて山を後背地に持ち、前面は平らな田んぼ、これは長沼に似ています。以前にも通ったことがあり、蔵の美しい集落だと言う印象があります。今度訪れてその印象が間違っていないどっしりと落ち着いた集落です。集落の個数の割には多すぎる蔵の数が重みを与えているではないでしょうか。これらの蔵は現在でも綺麗に改修が施されているようです。観光客のために残されたがらんどうの景色ではありません、蔵は数個ですが人々の生活の中で生きている蔵です。綺麗に壁塗りをして直された様子の右手前の蔵にしばし見とれてしまいました。この先にも幾つかの蔵があります。

先に進むと地蔵が建つ広場があり、鷹助の方向になります。

鶴生の出口(入り口かもしれません)は道路の真ん中に地蔵が数体祭られています。地蔵は木陰に入って雨や雪を避けられるようになっています。この旅は密謀の場所を見ることが主目的ですので、2つのほほえましい十九夜供養の石仏だけを載せました。たしかこの場所には、前回見たとき枯れた巨木が立っていたように思います。少しくれかかる夕闇の中に直立するシルエットは集落を守って立ちはだかっているようでした。村を守る地蔵のために道路が二つに分かれているなんて、なんと贅沢なことでしょう。このような村の人々の考えが蔵を生活の中に無理なく抱えていることと関係が有るのかもしれません。

 

 天保二年(1830年)
 嘉永2年(1850年) 酉十月吉日

十九夜供養石仏

街に暮らす者には、十九夜供養のためにこのように心を込めて彫られた石仏があったことなど想像もつかないことでした。十九夜の夜には村の人々が集い、飲食をし経を上げて過ごしたということです。少しだけでも村の暗闇、冬の厳しい自然の中で時間を過ごした身には、月夜の晩に天を仰いで祈りたいと言う気持ちが理解できます。経を共に唱えることで心が洗われたことでしょう、飲食を共にする事で集落の人と共に生きる張りが出たことでしょう。

 
A鷹助(たかすけ・現在高助)

鶴生と鷹助の間は500メートルほどしか離れていません。二つの集落共、阿武隈川が一つの要害となっていることは地の利をえているのではないでしょうか。集落の間は平坦な田んぼ、かなり見通しの良い場所が広がっています。戦いが起これば本庄繁長の望むところの激しい白兵戦が行われただろうと思います。鷹助の集落は山を背負って曲がりくねっています。集落の全体が撮影できません、羽太に向かう道からの撮影です。集落の横を阿武隈川支流の千歳川が流れ、上流には松平定信も楽しんだという景勝地があります。道路標識の手前側が@鶴生、右にB羽太

鷹助のバス停、字も見えない看板からもう廃線なのではとのんびり撮影していると、尻を押されるようにバスがやってきました。運転手の人も手持ちぶたさのようです、乗客が今日も居ないのではないでしょうか。既に秋の日は傾きかけています。

集落の入り口の梅宮神社、白河石の石段が立派です。神社前に形の美しい枝垂桜が1本。田んぼに突き出るようにたって居ます。集落の人が大切にしているのでしょう。私はこのように周りの景色に溶け込んでいる一本桜が大好きです、来春は訪れて花びらの雨を浴びてみたいと思いました。
@馬頭観音と枝垂れ柳
枝垂桜の下に数体の馬頭観音、桜の庇護を受けて幸せそう。ここは集落の最良の場所なのではないでしょうか。梅宮神社が祭られその前に静かに佇む一本桜。松平定信でなくてもこの入り口のもてなしに、これから先の村への訪問の楽しいであろう事が想像できます。
A馬頭観音
左の馬頭観音は嘉永5年と書かれていました。この白河地方には馬の生産地で馬市があったそうです。当時の上杉の騎馬軍団もこれらの馬を重用していたのではないでしょうか。このようなこともあって、馬頭観音が大小含めて多量に立てられています。
B集落の白馬
この集落を通り屋並みの切れるあたりに多分豚を飼っている家かと思いますが、白馬が一緒に飼われていました。驚いて引き返して又みたらたしかに足の太い農耕馬のような白馬、サラブレッドでなかったことに思わず嬉しくなりました。サラブレッドで白馬などと言う特別な馬ではな、この地に似合ったきわめて普通の白馬であったからです。この道は那須連山に阻まれて行き止まりになります。鶴生との中間点までもどり山を越えて羽太に向かいます。

既に影は長く伸びて日暮れがあっと言う間におとづれます。旅は日暮れの前に終わることができました。この地の人々の多くは、上杉景勝が大戦さを心に決めて、この地に決死の陣を布いたその時から営々と変わらぬ生活を続けて来たのです。歴史に何度も登場する上杉、記録からは知ることの出来ない無名の人々、今にその子孫達が残っていることが生きた証です。

道端の地蔵、ひっそり建つ社、それらに込められた想い、記録に残ることが無い人々に思いを馳せることになったのは、この旅に引っ張り出してくれた作者のお陰だと思いました。日暮れと共に幻の上杉軍の歓声は闇の中にかき消え道端の地蔵を祈り続けて来た人々の姿が強く浮かび上がってきました。羽太の集落を回ってこの旅は一旦終わりを迎えました。この旅の間、私は普段に無いほど素直でした、それは大変幸せな事でありました。

B羽太(はぶと・左側写真の集落)

右・鶴生、左・鷹助、直進・羽太。ここは徳川軍に対して兵を伏せた場所ではありません。上杉景勝、直江兼続らが作戦を練るために主だった武将達を引き連れて視察に訪れた集落です。本庄繁長、本庄出羽守義勝を将に将兵8,000 が陣を布く鶴生、鷹助(上の写真では道路の左方向)からは峠を越えた北側の集落になります。

右すれば白河、左すれば会津西街道に抜けられます。北上すると会津街道に出て上杉景勝の本隊に至ります。撤退するにしても、進軍するにしても重要な場所になります。それらの事を踏まえて偵察におとづれたのでしょう。後方の里山は切れることなく那須連山までつながっています。

3/2/2008            C関山のページへ   
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