奥の細道をたずねて関の細道B追分の明神

私の暮す村をかすめるように芭蕉・曽良は元禄二年(1689年)6月、歌枕の旅を続けていきました。”奥の細道”1冊を持って芭蕉の跡をたどってみます。芭蕉が立ち止まった地で、同じように私も歩みを止めて目にした自然と物との心の交流を試みてみます。既に計7部からなる那須の細道関の細道を掲載しました。東京・深川編6部を加えると合計13部になっています。続いて会津根の細道を掲載します。会津根(磐梯山)を左に見ながら白河の関から須賀川へと向かいます。@かげ沼A相良等窮B十念寺に続いてC石河の滝(乙字ケ滝)を掲載しました。相良等窮差し回しの馬にのって須賀川を出立、石河の滝を経て郡山に向かいます。奥の細道は全17部になります。2008.4.8. 

田村神社十念寺相良等窮かげ沼乙字ケ滝

関の城下町追分の明神白河の関境の明神遊行柳殺生石二宿の地

”街歩く”に掲載の深川七福神は、芭蕉が生活した地域とほぼ重なります。それなら、深川を旅たって向かった奥の細道の風景は、一つながりとして見た方が(芭蕉の心象風景も含めて)分かりやすいのではと思いました。クリッカブル・マップを同じページにおきましたので、深川と奥の細道の風景を行き来していただければと思います。

元禄二年(1689年) 

芭蕉・曽良白河滞在

旧暦
新暦
場所
4月20日
6月7日
朝8時に那須湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出る。旗宿に泊まる。
4月21緋 6月8日 白河の古関を探す。関山・満願寺に登り参拝、後、白河城下の中町・左五左衛門に立ち寄る。矢吹に泊まる。
旗宿から陸奥に入って初めての城下町、白河に入り中町に立ち寄ります。白河藩士の俳人・可伝(かうん)との邂逅が叶わなかった事が、憧れの歌枕のこの地での滞在が一日で終わった理由かもしれません。
那須町・追分の明神
芭蕉と曽良は旗宿で古関の跡を探しましたが、確たる確証を得られずに心を残しながら立ち去っています。心残りの様子は、須賀川の相楽等躬のもとに滞在中、白河藩の俳人・何伝(かうん)あての書簡に『関守の宿を 水鶏(くいな)に とはふもの(問おう)』の句を書く送っていることからも想像できます。

この追分の明神までは健脚の芭蕉も足を伸ばしていません。曽良の旅日記にこの地の記録が残っています(備忘録とも言える日記には几帳面に多くの名所が記載されています)。旧東山道の古道の峠道には、現在でも木々が空をふさぎ霊的な空間をかもし出しています、芭蕉には興味深い社であったろうと思います。しいて訪れなかったのは、長い登り道だったこともありますが、歌枕と関係の無い場所だったからだと思われます。この道は那須側に下ると伊王野で奥州街道と合流します。

白河の古関前は旧東山道、時代によっては関街道又は鎌倉街道(義経街道とも呼んでいますがどうでしょうか)などとも呼ばれる奥州への重要な街道でした。芭蕉が憧れた古の歌人も多く通りましたが、武具を身にまとった坂上田村麻呂や義経も通り頼朝も通った街道です。境の明神からの道を東山道に出て、右に南下すると追分の明神があります。杉の巨木が目立つ霊的な空間です。

坂上田村麿は一般的には田村麻呂と書かれるが、両方が使用されています。ここでは田村麿と表記されています。

義経伝説1・追分明神説明板(←左写真)
以下は境の明神に立つ説明板より抜粋)治承4年(1180)8月、兄の源頼朝が伊豆(今の静岡県)に平家追討の旗を挙げたことを、遠く奥州平泉(今の岩手県)で聞いた源義経は、矢もたてもたまらず、藤原秀衡にお願いして鎌倉へ上ることにしました。弁慶・常陸坊海存(ひたちぼうかいそん)、四天王といわれる亀井・片岡・伊勢・駿河をはじめ、あらたに郎党(家来)となった佐藤継信(つぐのぶ)・忠信の兄弟を従え、奥州路を白河の関へかかります。白河の関は、その昔、関東と奥州の大切なとりででしたが、義経の頃には、もうすでにさびれた山砦にすぎなかったことでしょう。中秋の暑気を残して、陽は赤く豆沢(ずさわ・寄居からの道の途中)の山に落ちかかっていました。

関山地図上のご希望の場所でクリックしてください。クリッカブル・マップになっています。 自らの側を護る女神、玉津島神社の石碑。白河側にもかっては国境の神があったのでしょう。 玉津島神社の石碑。境に二つの社を創建するのは古の習いです。いったん那須側に下ってから、再度那須側から白河側へ越えてみます。左に追分の明神、この道の先に古関があります。

 

小さな社には推定樹齢700年と称する3本の杉の巨木が一帯を覆っています。だとすると、義経がこの峠を通り過ぎてからおよそ100年後に生命を授けられた事になります。2008.4.7

 
境の明神・白河の関への順路
ここまでの主な場所への概念図を書いてみました。白河の道は城下町の常で多くのクランク状の枡形(喰い違い)が残っていて区画整理を進めていますが、市街地に入ると方向を失います。芭蕉が歩いた境の明神、白河の関は市街地に入らずに訪れることが出来ます。

尚、白河の関以外は車無しで回ることは不可能でしょう。白河インターを出たら4号線を福島方面に出て東北道をくぐります、右にジャスコがあり、信号。そこから500メートル程先の更に2つ目の信号、左手前にトヨタ、先にコナカ、右に眼鏡店の大きな交差点を右折、新幹線の新白河駅を陸橋で越えます。坂を下りて2つ目の信号が289号線、右折。和菓子エンドウの交差点で右折すると境の明神へ、更に進んで白河実業高校の信号を右折すると白河の関に出ます。共に白河インターから40分程でしょう。尚、上の写真は76号線の旗宿の交差点、右は旗宿から白河の関方面、左・関山方面です。

白河・旗宿

白河市街地からは20〜30分ほどで来られるどこにでも見られる普通の集落です。JR白河駅(新幹線の新白河から普通電車で来られます)から福島交通のバスが通っています。

周りは里山がぐるりと取り囲み、その間をぬって流れる杜川の周囲に田圃が広がっています。ここに7〜8世紀頃古関があったとは思えない静かな場所です。当時は関を護るに足るだけの兵士や役人が集落の近辺に居たのでしょうか。発掘された遺跡や空堀・土塁などは少なくない人数の居住が想像されます。下っては、八幡太郎義家が通り義経もこの地に伝承を残して通り過ぎていきました。芭蕉の言葉のごとく時の流れの中にすべてが溶け込んでしまっています。

↑の写真は、右から芭蕉が境の明神から旗宿まで歩いてきた上和平からの道が、追分の明神に伸びる東山道にぶつかっています。確かこの角には普通の家があったと思いますが、立て替えて少し道路側に広場できたようです。そこに多くの石碑が立てれています。その前には芭蕉の句碑が立っています。

静かな旗宿の集落、手前が白河の古関跡方面、この先で左・白河市街地、右・関山方面に分かれます。芭蕉は右に関山に向かっています。 私のお勧めする景色です。東山道から芭蕉の歩いた境の明神の上和平への道に300メートルほど入ると、杜川に掛かる関守橋があります。そこから眺めると右前に古関の跡、左に旗宿が望まれます。芭蕉の歩いた当時を思わせる懐かしげな景色が眼前に広がります。
  東山道の道路脇に小さな庭園風のスペースが出来ています。馬頭観音・二十三夜供養等などの古い石塔がまとまって建っています。集落のもろもろの守り神なのでしょう。

青雲社が立てた句碑(←)は、石塔群と向き合うように道路の反対側にあります。

西か東か先早苗にも 風の音
白河藩士・何伝(かうん)宛ての書簡に書かれた句。
庄司戻しの桜
旗宿の北側の外れに”庄司戻しの桜”の石碑と桜があります。上の写真はそこから、旗宿を見ました。説明板を読むと天保年間に、物語の基になった桜が野火で消失と書かれています。この幹の太さから見て、それ以降も何代かの桜が植え継がれてきたように思います。このような看板に接すると、物語、特に権威のあるものが良いようですが、を共有することには共同体の団結・帰属力には大切な事なのだったという思がわいてきます。
村に暮してみると、いかに物語の巧みな作者が多種多様に存在するかが分かります。物語を作り聞いて、その共同体の一員たることを再確認しているように思えるのです。作者は知恵・力又は財力等に優位性の高い人が作った話の方が伝播する強い力を持っているようです。虚と僅かな実が織り交ぜられた物語の強い創作力は、煙が無ければ火を付けかねないほどなのです。塩っ辛い考えのよそ者の私は、その煙を浴びながら悪意のない長話が早く終わることを何時も念じています。これは伝承についての全くの素人の想像ですの、間違った理解をしているかも知れません。こうような想像を楽しんだのは、庄司戻しの桜が隣町にある遊行柳の伝承と類似している事を思ったからなのです。
 
芭蕉と曽良は旗宿から関山に向かい頂上の満願寺を詣でます。関山はこのホーム・ページ”村歩く”の”密謀をポケットに入れて”に掲載されていますのでご高覧ください。芭蕉は旗宿から関山に登り白河城下に下りて行きます。城下については、同行した曽良の旅日記に多くの場所が記載されています。変貌した城下の姿をC関の城下としてページを改め記載いたします。
8/22/2008