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旧暦
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新暦
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場所
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4月20日
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6月7日
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朝8時に那須湯本を出立。芦野の遊行柳を見、境の明神から白河の関に出る。旗宿に泊まる。 |
4月21緋 |
6月8日 |
白河の古関を探す。関山・満願寺に登り参拝、後、白河城下の中町・左五左衛門に立ち寄る。矢吹に泊まる。 |
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旗宿から陸奥に入って初めての城下町、白河に入り中町に立ち寄ります。白河藩士の俳人・可伝(かうん)との邂逅が叶わなかった事が、憧れの歌枕のこの地での滞在が一日で終わった理由かもしれません。 |
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芭蕉と曽良は旗宿で古関の跡を探しましたが、確たる確証を得られずに心を残しながら立ち去っています。心残りの様子は、須賀川の相楽等躬のもとに滞在中、白河藩の俳人・何伝(かうん)あての書簡に『関守の宿を 水鶏(くいな)に とはふもの(問おう)』の句を書く送っていることからも想像できます。
この追分の明神までは健脚の芭蕉も足を伸ばしていません。曽良の旅日記にこの地の記録が残っています(備忘録とも言える日記には几帳面に多くの名所が記載されています)。旧東山道の古道の峠道には、現在でも木々が空をふさぎ霊的な空間をかもし出しています、芭蕉には興味深い社であったろうと思います。しいて訪れなかったのは、長い登り道だったこともありますが、歌枕と関係の無い場所だったからだと思われます。この道は那須側に下ると伊王野で奥州街道と合流します。
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小さな社には推定樹齢700年と称する3本の杉の巨木が一帯を覆っています。だとすると、義経がこの峠を通り過ぎてからおよそ100年後に生命を授けられた事になります。2008.4.7 |
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境の明神・白河の関への順路
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ここまでの主な場所への概念図を書いてみました。白河の道は城下町の常で多くのクランク状の枡形(喰い違い)が残っていて区画整理を進めていますが、市街地に入ると方向を失います。芭蕉が歩いた境の明神、白河の関は市街地に入らずに訪れることが出来ます。 |
尚、白河の関以外は車無しで回ることは不可能でしょう。白河インターを出たら4号線を福島方面に出て東北道をくぐります、右にジャスコがあり、信号。そこから500メートル程先の更に2つ目の信号、左手前にトヨタ、先にコナカ、右に眼鏡店の大きな交差点を右折、新幹線の新白河駅を陸橋で越えます。坂を下りて2つ目の信号が289号線、右折。和菓子エンドウの交差点で右折すると境の明神へ、更に進んで白河実業高校の信号を右折すると白河の関に出ます。共に白河インターから40分程でしょう。尚、上の写真は76号線の旗宿の交差点、右は旗宿から白河の関方面、左・関山方面です。
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白河市街地からは20〜30分ほどで来られるどこにでも見られる普通の集落です。JR白河駅(新幹線の新白河から普通電車で来られます)から福島交通のバスが通っています。
周りは里山がぐるりと取り囲み、その間をぬって流れる杜川の周囲に田圃が広がっています。ここに7〜8世紀頃古関があったとは思えない静かな場所です。当時は関を護るに足るだけの兵士や役人が集落の近辺に居たのでしょうか。発掘された遺跡や空堀・土塁などは少なくない人数の居住が想像されます。下っては、八幡太郎義家が通り義経もこの地に伝承を残して通り過ぎていきました。芭蕉の言葉のごとく時の流れの中にすべてが溶け込んでしまっています。
↑の写真は、右から芭蕉が境の明神から旗宿まで歩いてきた上和平からの道が、追分の明神に伸びる東山道にぶつかっています。確かこの角には普通の家があったと思いますが、立て替えて少し道路側に広場できたようです。そこに多くの石碑が立てれています。その前には芭蕉の句碑が立っています。
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静かな旗宿の集落、手前が白河の古関跡方面、この先で左・白河市街地、右・関山方面に分かれます。芭蕉は右に関山に向かっています。 |
私のお勧めする景色です。東山道から芭蕉の歩いた境の明神の上和平への道に300メートルほど入ると、杜川に掛かる関守橋があります。そこから眺めると右前に古関の跡、左に旗宿が望まれます。芭蕉の歩いた当時を思わせる懐かしげな景色が眼前に広がります。 |
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東山道の道路脇に小さな庭園風のスペースが出来ています。馬頭観音・二十三夜供養等などの古い石塔がまとまって建っています。集落のもろもろの守り神なのでしょう。
青雲社が立てた句碑(←)は、石塔群と向き合うように道路の反対側にあります。
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西か東か先早苗にも 風の音
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白河藩士・何伝(かうん)宛ての書簡に書かれた句。 |
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旗宿の北側の外れに”庄司戻しの桜”の石碑と桜があります。上の写真はそこから、旗宿を見ました。説明板を読むと天保年間に、物語の基になった桜が野火で消失と書かれています。この幹の太さから見て、それ以降も何代かの桜が植え継がれてきたように思います。このような看板に接すると、物語、特に権威のあるものが良いようですが、を共有することには共同体の団結・帰属力には大切な事なのだったという思がわいてきます。 |
村に暮してみると、いかに物語の巧みな作者が多種多様に存在するかが分かります。物語を作り聞いて、その共同体の一員たることを再確認しているように思えるのです。作者は知恵・力又は財力等に優位性の高い人が作った話の方が伝播する強い力を持っているようです。虚と僅かな実が織り交ぜられた物語の強い創作力は、煙が無ければ火を付けかねないほどなのです。塩っ辛い考えのよそ者の私は、その煙を浴びながら悪意のない長話が早く終わることを何時も念じています。これは伝承についての全くの素人の想像ですの、間違った理解をしているかも知れません。こうような想像を楽しんだのは、庄司戻しの桜が隣町にある遊行柳の伝承と類似している事を思ったからなのです。 |
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芭蕉と曽良は旗宿から関山に向かい頂上の満願寺を詣でます。関山はこのホーム・ページ”村歩く”の”密謀をポケットに入れて”に掲載されていますのでご高覧ください。芭蕉は旗宿から関山に登り白河城下に下りて行きます。城下については、同行した曽良の旅日記に多くの場所が記載されています。変貌した城下の姿をC関の城下としてページを改め記載いたします。
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