飛鳥寺・飛鳥大仏 |
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全く勝手な個人的好みなのですが、他人の決めたスケジュールで旅をする事がどうも好みに合いません。従って、団体旅行の一人旅となる家人にはしばしば嫌味を言われるので、出雲と奈良なら行くと言い逃れていたところ、数年前に出雲の旅に引き出されました。これが思っていたより団体旅行も自分勝手に楽しめる事が分かって大いに観光臭の薄い静かな松江の街を大いに楽しむ事が出来ました。 今年の正月はいよいよ奈良と決められて下調べをと思ったのですが、多忙でままならずかって読んだ本の記憶を頼りに慌ただしい出発となりました。お陰で、私の日本の中では尋ねたいと思う出雲や山陰と奈良が繋がり大いに楽しい旅となりました。 無秩序な人の波は奈良市内近くの東大寺と春日大社程度で、多くは神域らしい重厚かつ嫋やかな佇まいの中での社寺巡りを存分に楽しむ事が出来ました。最も楽しみにしていた山の辺の道の散策では地元の方々の親切に助けられヤマトの国の始まりに思いを馳せながら三輪から巻向駅まで一駅分の古道歩きを存分に堪能する事が出来ました。我が身をあたかも大神(おおみわ)神社の大物主大神や7世紀の世界に漂よわせるような中身の濃い思い出が出来ました。帰ってから妻に斑鳩なら又行っても良いと申し出たほどでした。 |
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正月のヤマト逍遥 |
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1月3日午後の奈良市の差散策のマップを添付申し上げました。ルート:興福寺⇒氷室神社・春日野町1−4⇒東大寺⇒春日大社⇒奈良町散策・奈良市勝南院町住吉神社⇒元興寺⇒率川(いさがわ)神社 | ||||
6:36・今日は2泊3日の奈良への旅の最終日、濃密な歴史の時間の中で過ごしたせいか実際より長く感じる3日間でした。最終日はいよいよ楽しみにしていた斑鳩の飛鳥寺を訪れる日です。 寝坊をしないよう早めに起きて朝一番の6時半に朝食を取ります。今日の朝食にはしめ鯖に奈良漬とこの地らしい食べ物が食卓に乗っていました。 2024.01.04 |
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7:41・帰宅の為に荷物のパッキングを念入りに行います。遅刻しないように少し早めにホテルを出発して馴染みになった三条通りを少しの間散策をしてみました。東大寺や春日大社の方向には山並みが姿を見せてくれました。 2024.01.04 |
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三条通りは未だ朝の出勤時間には早いせいか人通りはまばらです。奈良駅から延びる高架橋が三条通りに掛かっているのが見えました。いよいよ出発の時間です、バスの待つ大通りに向かいました。 2024.01.04 |
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樫原神宮住所:奈良県橿原市久米町934。 旅の最終日の今日、最初に訪れる樫原神宮では朝がまだ早いせいか長く続く砂利道の参道にも参拝の人影はまばらです。それでも参道には未だ入口を閉じた屋台の小店が軒を連ねていることから初詣の折の人混みが推測できます。砂利道の先に第二鳥居が見えてきました。 2024.01.04 |
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古都・奈良では珍しい明治23年(1890年)に創建された神社との事、どの建物も綺麗な事が納得できます。外拝殿を通って内拝殿で参拝をさせてもらいました。 2024.01.04 |
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多くの初詣の人達を迎える為に作られた広大な内拝殿(ないはいでん)のお賽銭用の幕の前に立ち参拝をさせていただきました。 2024.01.04 |
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参拝を終わると未だバスの出発までには時間が有りそうです。境内を抜けて隣接する深田池を訪れてみる事にしました。 2024.01.04 |
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橿原神宮に隣接する深田池の遊歩道を歩いていると鴨の群れが餌を啄んでいる姿が池のあちらこちらで目に入ります。多くの仏様や神様の前で拝んだお陰か穏やかな日和の中での正月の旅を迎える事が出来ました。
2024.01.04 |
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暫く池添いに歩くと真っ赤な鳥居が並ぶ中山稲荷の前にやってきました。折角なのでかなり長く続く鳥居の間を潜り拝殿で参拝をさせていただきました。2024.01.04 | ||||
池の傍に早咲きの桜の花が咲いていました。今年初めて見る桜になります。 2024.01.04 |
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9:35深田池を橋を辿りながら対岸に渡りました。参道に戻り宮川にかかる神橋を渡りバスが止っている場所まで戻る事にします。 2024.01.04 |
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10:43・次の訪問地飛鳥寺に向かうバスの中で、物知りの車掌さんが石舞台古墳が右手に見えますと教えてくれました。 生憎私の座る反対側の窓なので慌ててシャッターをおしました。大きな岩が目に入りましたので多分これがその石舞台古墳だと思います。辺りには山が迫ってきています。
2024.01.04 |
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飛鳥寺住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682。 若いころ亀井勝一郎の”大和古寺風物詩”を読んだ折に大きくなったら飛鳥を訪れたい思った気持ちが懐かしく朧に思い出されます。 今回の旅の中でも訪れてみたいと思っていた飛鳥寺にやってきました。現在の飛鳥寺境内に立つ”飛鳥寺略縁起”には崇峻元年(589年)蘇我馬子が法興寺として建立した日本で最初の本格的な仏教寺院と書かれています(年代には諸説により若干の差異があるようですが)。後に元興寺、飛鳥寺とも呼ばれてきたとも書かれています。 後に法興寺(飛鳥寺)の禅院の一部が平城京に移り元興寺と呼ばれたようです。この事からこの法興寺(飛鳥寺)が”本元興寺”とも呼ばれるようです。 2024.01.04 |
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境内に立つ”飛鳥寺略縁起”。 飛鳥大仏については仏師・鞍作鳥(個人的には止利仏師の呼び方が記憶に残っていますが)作の日本最古の仏像(銅像)と書かれています。 推古天皇が詔して推古13年(605年)に作らせたと書かれています。旧伽藍は仁和3年(887年)と建久7年(1196年)の二度に渡り焼失したとの事です。 2024.01.04 |
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飛鳥寺の駐車場に立つ案内地図を拡大してみました。因みに地図の右方向が北になります。710年遷都の平城京はこの方角になります。 飛鳥寺の西に隣接して五輪塔のイラストが付いた”蘇我入鹿首塚”が見えます。更にその西に蘇我氏の本拠であった甘樫丘が指呼の間に記入されていました。 2024.01.04 |
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境内の入口の左側の築地塀の前に立っていた飛鳥寺のご住職の参拝の人を迎える言葉に感銘を受けました。ありきたりの言葉では無く、感じ方は人それぞれでしょうが、私の心にはその熱意が伝わる言葉の数々でした。 2024.01.04
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日本書紀に記述の残る聖徳太子の師である高句麗の僧””恵慈(えじ)”がこの飛鳥寺に住んだとも書かれていて、私の思う飛鳥への歴史に新たな楽しみが加わりました。 2024.01.04 |
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止利仏師作の日本最古の大仏像・飛鳥大仏がおわす本堂の前で手を合わせました。 2024.01.04 |
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本堂の前に”平成20年(2008年)・推古天皇誓願・飛鳥大仏開眼千四百年”の案内板が置かれています。 右にはこの場所が創建当時の中金堂でその基礎の石だとの説明がありました、創建当初(日本最初)・金堂礎石(三個)・西暦五九六年、の文字が見られます。 本堂の右側入口から中に入ります。 2024.01.04 |
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それ程広くもない本堂の中に足を踏み入れると、推古13年(605年)に作られた飛鳥大仏(釈迦如来)が眼前にそのお姿を見せてくれていました。殆どのお寺で本尊をこれ程まじかで見た経験が殆どありません。 仏様の掌が私の手が届きそうな近くにありました。まさかお釈迦様がとは思いましたが息遣いが聞こえるのではと思えるほどの感動を受けました。 係の人が説明をしていただきましたが仏像に見とれて勿体ない事に頭に残っておりません。 撮影禁止等の標識も無く、写真を撮っても掛の人の注意もないので、他の参拝の人と同じく私もシャッターを押させて貰いました。帰宅後の大きな旅の思い出が出来ました。聖徳太子の功徳を頂いたようなおおらかな飛鳥寺のもてなしに感動してしまいました。去りがたいのですが次の参拝の人達がいるのでまた手を合わせて祈りとお礼を申し述べました。 飛鳥寺でいただいた説明文では、推古13年(605年)、推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子塔と発願し、609年、止利仏師によって作られた日本最古の仏像。鷹さ約13メートル、銅15トン、黄金30グラムを要した。鎌倉時代の大火災で罹災、改修を受けると書かれています。係の方の説明を聞く間目を離す事無くお顔を見ていました。 2024.01.04 |
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去りがたい気持ちを振り切って奈良大仏から本堂の出口へと向かいました。聖徳太子孝養像が厨子の中に置かれていました。聖徳太子16歳の折に、父である用明天皇の病気会不育を祈願する姿と法隆寺の説明に書かれていました。室町時代の作。 聖徳太子の係累である上宮王家(じょうぐうおうけ)の、特に太子の子供と言われる山背大兄(やましろのおおえのみこ)の悲劇を思いながら暫く手を合わせて祈りました。 2024.01.04 |
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法興寺時代の旧伽藍は仁和3年(887年)と建久7年(1196年)の2度に渡り焼失しましたが、発掘で見つかった当時の瓦と思われるものが陳列されていました。右の仮面のような遺品の上の瓦には”巴紋軒丸瓦”その左の瓦には”唐草文様軒平瓦”の説明が見えます。 2024.01.04 |
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大仏殿の中に”飛鳥寺復元図”が飾られています、画像の右方向が北になります。飛鳥寺のパンフレットの飛鳥寺創建時伽藍配置図”と併せて見ると画面左が中門、塔を挟んで手前の東金堂と西金堂、北側に中金堂が見られます。現在の飛鳥寺の本堂はかっての中金堂の位置にあります。 現在私達は画面下側の東側から現存の飛鳥寺の参拝に訪れたと思われます。 2024.01.04
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”思惟殿”の額が見えます。聖観世音菩薩が御本尊との案内板が立っていました。 2024.01.04 |
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鐘撞堂も自由に鐘がつけます。参拝する者を信頼してのことか注意書きなどが見られない事に心が和みます。聖徳太子縁のお寺らしいと納得しました。 緩やかかに諸々の思いを込めて鐘を鳴らさせてもらいました。鐘の音が重々しくも静かに斑鳩の自然の中に流れて行きました。 大変思い出に残る鐘撞でした。 2024.01.04 |
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蘇我入鹿の首塚を訪ねるべく飛鳥寺の境内から農地の中の道を西に向かいます。首塚は指呼の間に見えてきました。辺りには長閑な田園地帯が広がっています。
2024.01.04
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”蘇我入鹿の首塚”の伝承がある五輪塔が現在の飛鳥寺の西側、かっての西門、にありました。本で読んだ入鹿を思い手を合わせました。皇極4年(645年)乙巳の変で暗殺された入鹿の首が空を飛んで来たという伝承(遺体が埋葬されたとも言われています)が残っている五輪塔。 飛鳥寺の心遣いか地元の方のお気持ちか真新しい生花が供えられていました。この地に立って今まで私が聞き知っていた蘇我入鹿の物語も少し筋書きが変わる気がしてきました。
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蘇我入鹿首塚の後方の更に西、蘇我氏由来の甘樫丘が望まれます。長閑に広がる飛鳥の田園風景からは激しい当時の政争の物語が幻のように思えてきます、 2024.01.04 |
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飛鳥寺での濃密な時間を過ごし、他人事のように感じていた歴史の物語がお陰で現実のもののように感じる事が出来ました。 バスの出発に遅れないよう飛鳥寺の山門を出て駐車場に向かいました。再度手を合わせて歴史の舞台に立てたお礼を申しました。 2024.01.04 |
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10:34・飛鳥寺のバス停の前にもう一つの案内地図が置かれていました。この案内図の現在地が飛鳥寺バス停です。この道を右方向に歩いてみました。 バスの出発までには少しの時間があるので上のバス停前の案内地図の”現在地”と書かれた飛鳥寺の通りに出て辺りの人家の風景を見る事にしました。飛鳥寺の前の道を少し北に進んで(地図では右に)飛鳥寺の駐車場を見ています。 2024.01.04 |
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蘇我氏や聖徳太子の登場する歴史の大舞台が参拝の終わった今では何気ない普段の暮らしの姿で広がっていました。 2024.01.04 |
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少し人家の中の道を進んでみました。落ち着いた佇まいの家々が続いている心地良い道の先にT字路の交差点が見えてきました。 長い歴史が今も密かに息づく町並みの中を歩いて、生き続けてきた歴史を肌で感じる事が出来た大変楽しい一時です。地元の方々の信仰とそれに基づく助けが有っての現在の飛鳥寺でしょうから。 2024.01.04 |
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駐車場に戻って北方向の斑鳩の町を眺めています。訪れる前の私には歴史の舞台として肩肘が張るような斑鳩の町の印象でしたが今は静かに佇んでいる何処にでもある穏やかな暮らしの風景に見えてきました。 バスに戻る事にします。 2024.01.04 |
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正月の奈良の旅は最終日、午前中に尋ねたいと思っていた斑鳩の地にある飛鳥寺を参拝する事が出来ました。想像した通りの長い歴史の出来事を包み込んだ町並みの中にそれはありました。辺りに小山と田畑が広がる中に点在する家並みの風景は私を大いに癒し楽しませてくれるものでした。生き続けてきた気の遠くなるような長い歴史を包み込んだ斑鳩の地に身を置く時間を一時も無駄にしないように心して過ごしました。 2024.01.04 |
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03/03/2024 | ||||
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