有楽町で”サウンド・オブ・フリーダム”を観る A日暮里駅から谷中の散策 @

谷中霊園・徳川慶喜墓

コロナ騒動で出不精になった上に雑用が重なりすっかり夜の街に出る気が失せてしまっていました。10月30日、心に掛かっていた雑用に何とか目途がたった事から、仕事が終わった後突然秋葉原のヨドバシカメラにハード・デイスクなどの小物を買いに出かけようと思い立ちました。それならこれも久しぶりになりますが、私の好みの神田の蕎麦屋・”まつや”でそばを食べようと俄然夜の街の散策の楽しさが心に蘇ってきました。

夜のヨドバシカメラでの買い物が引き金となり、すっかり昔日に戻ったようで、それなら有楽町で映画を見ようと次々と楽しい事が心に浮かんできました。

有楽町での映画鑑賞までの2回の街歩きを記載しました。映画鑑賞のきっかけになった@秋葉原の夜では、ネオンの輝く秋葉原の町と好みの蕎麦屋”まつや”での夕食を掲載しました。

2024.11.05

 
2024年11月5日・有楽町への途次の寄り道・日暮里駅から谷中の散策

13:30・今日は有楽町で映画を見る事にしています。開演が午後3時40分なので、妻が日暮里の繊維街で洋裁の布地等を買いたいとの事。私はその間駅東口の繊維街の反対側の西側にある谷中を散策する事にしました。

一時間後に駅である事にして左と右に分かれます。日暮里駅西口を降りて繊維芽方面を写しました。

2024.11.05

13:13・駅前の羽二重団子の店がすっかり変わってしまっていました。

2024.04.22

13:14・”もみじ橋”の名前が付いた駅の石段を登り線路の反対側の谷中方向に向かうことにしました。

2024.11.05

13:15・上野の山から続く岡が望まれます。私の馴染んだ東京の街が残っている極めて楽しい場所の一つです。陸橋の先には天王寺の杜が望まれます。谷中七福神の三番目・天王寺毘沙門天@を始めとして何度か訪ねた大好きなお寺の一つです。

2024.11.05

谷中・天王寺

13:16・左に天王寺の境内を取り囲むような漆喰壁が生み出す落ち着いた佇まいの道を辿ります。

 

2024.11.05

道路脇の案内板に天王寺の由来と町名の変遷が書かれています。昭和40年(1967年)表維持変更で谷中7丁目となったと書かれています。不確かな記憶ですが各地で由緒ある名前が記号のような番号に変更されて問題なった事が思い出されました。この地もその一つであったのかと思い出しています。

2024.11.05

13:18・天王寺の境内にはいると大きな釈迦如来の銅像が後方の近代的なビルを背景に鎮座している姿が目に入ります。人影に見えないうちに参拝をすべく急いでカメラシャッターを押しました。

2024.11.05

13:20・未だ人影の無い本堂の前で昨年来悩まされた問題が解決されたお礼を申し述べながら手を合わせました。思いもよらない事ですがこの機会に天王寺に参拝できたことを心から喜びを感じました。

2024.11.05

13:21・参拝を済ませて釈迦如来像の前で手を合わせて再度お礼を申し述べました。上の山から続く丘陵地の中の境内の木々囲まれた銅像を見上げると心が柔らかく解きほごされていくような気分になります。

2024.11.05

銅像に取り付けられた説明版には元禄3年(1690年)に建立されたと記されていました。現在地から100m程に有って焼失した五重の塔近くにあったとも書かれていました。

2024.11.05

谷中墓地開設の為、昭和8年(1933年)に現在地に移築されたとも記載されています。

2024.11.05

13:27・本堂の右に木立に間から天王寺毘沙門堂が見えます。三々五々訪れる海外からの人達の姿が目に入りだしたので参拝を済ませて谷中墓地方向に向かう事にしました。

2024.11.05

13:23・鐘を少し鳴らして手を合わせてお礼を申し述べます。

2024.11.05

13:24・優美な姿の本堂を再度眺めます。辺りの風景と一体感を持った静かな佇まいに再度手を合わせます。

 

2024.11.05

13:25・何処も綺麗に清掃された心地良い境内の山門近くに地蔵が見えます。そのせいか、今でも祈る人々との思いが強い絆で結ばれているような生き生きとしたお姿に感じました。

2024.11.05

後の説明版には昭和9年にお子さんを校庭での不慮の事故で亡くされた親御さんがその霊を悼むと共に再発帽子を祈って奉納されたと書かれていました。痛ましい出来事の記載に出会って一瞬声が詰まりました。地蔵尊に手を合わせます。

2024.11.05

13:26・谷中墓地を訪れる為に天王寺の山門方向に戻ります。山門の近くに如何にも古い時代の雰囲気が感じられる8基程の庚申塚が見えました。

 

2024.11.05

天王寺境内には江戸時代に奉納された10基の庚申塔が奉納されていると説明版に書かれていました。

2024.11.05

13:28・天王寺の左側の山門を潜ってから境内を振り返りました。静かに坐する釈迦如来像がそのお姿を見せてくれていました。

2024.11.05

13:29・天王寺の山門を潜り通りに出ました。道路脇に地蔵尊を祀る御堂が見えます。以前谷中七福神の三番目・天王寺毘沙門天@と訪れた折にも手を合わせた美しいお堂で再度手を合わせます。地蔵尊の横に見えるが先程の説明版に書かれていた堂内の庚申塚と思われます。

2024.11.05

13:30・日暮里駅寄りの山門から右に進むともう一つ山門がありました。こちらの山門の方が造りや付属の建物などがある事から主たる山門のように感じました。

2024.11.05

もう一つの山門の脇にある天王寺の説明版です。江戸の寺院としてはかなり古い時代に創建された寺院である事と富くじ興行が行われたとの説明が見られます。

 

2024.11.05

13:31・谷中霊園のメイン通り・さくら通りを東京芸大方向に向かいます。桜通りの脇に”故円遊墓道”の案内石柱が見えたのでお墓の間の道に入ってみましたが林立する石柱に迷ってしまいました。

妻との待ち合わせの時間や映画の開演時間に間に合わないといけないので諦めて桜通りに戻りました。この”円遊”はウイキペデアによれば初代の三遊亭円遊と思われます。

2024.11.05

”円遊墓道”の案内石柱から僅かで左手に交番に隣接した小さな公園が見えます。その案内板に関東で一番高い五重塔だったが昭和32年放火で消失と書かれていました。

2024.11.05

13:41・美しい姿の五重塔と消失時と消失後の写真が案内板に見られます。この案内板の置かれた小さな公園の中のベンチに腰掛けて持参の魔法瓶に入れてきたお茶で一服しました。

2024.11.05

別の説明版、甲田露伴の”五重塔”のモデルとも書かれています。

2024.11.05

 

13:45・谷中霊園のメイン道路・さくら通り。

真っ直ぐ進むと右手に交番、その先に天王寺五重塔跡があります。更に進むと先ほど参詣をした天王寺に突き当たります。

2024.11.05

13:46・更にさくら通りを芸大方向に進んでいくと左にスカイツリーがせの尖塔を見せてくれます。墓石の並ぶ小道の入り口に徳川慶喜墓地の案内板が見られます。帰路に立ち寄る事にしました。

2024.11.05

13:47・さくら通りが不忍通りの団子坂交差点から登ってくる三崎坂を通る452号線に合流する場所にやって来ました。時代を感じさせる建物前に”谷中・いろは茶屋””池波正太郎作品の舞台”の案内板が見えます。寺院の近くにはこのような場所がある事はしばしば時代小説で目にする事です。

鬼平犯科帳の舞台は深川の堅川や小名木川が知られていますがこの地も舞台の一つであった事を知りました。

2024.11.05

 

13:47・この瓦屋根の建物がそのモデルかも知れません。上の案内板はこの家の道路の反対側に立っていました。

2024.11.05

13:48・サクラ通りのこのあたりは谷中霊園へのもう一方の入り口にあたるせいか花屋さんと思われる趣のある建物も見られます。

2024.11.05

13:49・不忍通りの団子坂交差点から登ってくる三崎坂を通る452号線に到着。信号の見える方が三崎坂を下って不忍通りに向かいます。今もそうですがこの辺りは道が大きく広がっていて都内では珍しく車を止めて一服できる場所で道路脇に公衆トイレもあります。

私の記憶が確かなら昔左側のビルの辺りかその先には蕎麦屋か中華屋があったと思います。数人の芸人の姿をその前で見て、その中に林家三平の姿を見て驚きました。

この三崎坂を下った先の一方通行の道を田端方向に進む静かな道が谷中銀座と交差する辺りでも噺家の姿を何度か召した事が有ります。当時はそのような人達がかなり澄んでいるのだと思っていました。2024.11.05

13:53・懐かしい道を今回は歩きながら辺りを見渡しました。この先は信号 愛玉子・カヤバ珈琲・桃林堂 上野店谷中岡埜栄泉

2024.11.05

13:54・昔大福を買うために何度か立ち寄った和菓子屋さんの岡埜(おかの)栄泉を尋ねましたが残念ながら定休日でした。昔のまんまで店がありました。

通りの反対側にある愛玉子や趣のあり店の作りのカヤバ珈琲(当時は名前も知りませんでしたが)等も残っていたことは嬉しい限りです。日暮里駅での待ち合わせの時間もあるのでここから引き返すことにしました。

2024.11.05

岡埜栄泉の隣の大雄寺の前に旧谷中町の歴史が書かれた案内板が立っていました。

2024.11.05

13:56・大雄寺の参道から手を合わせて今日の旅のお礼を申し述べました。案内板に書かれた”大クスの木”が大きく枝を伸ばしていました。案内板によれば境内の墓地に維新の三舟と言われた勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟が眠っていると書かれていました。

 

2024.11.05

13:57・日暮里駅に戻る道の途中に以前にもあったお風呂屋さんがかなりモダンな作りに変わって営業を行っていました。海外の人も入るらしく普通の東京の街のお風呂屋さんとは少し雰囲気が変わっていました。

2024.11.05

13:59・岡埜栄泉から谷中霊園方向に戻ってきました。

2024.11.05

14:00・道路脇に江戸時代の谷中の絵地図が置かれいました。地図の赤い線が、不忍通りの団子坂交差点(地図の上端方向)から登ってくる三崎坂を通る452号線,が地図の場所と思われます。右向かう太い道が天王寺に向かう参道ではないか思われます。

2024.11.05

14:05・さくら通りを進んで堪能時方向に戻ります。右手に徳川義信の墓の案内板に見ながら墓地の中の道を100m程進むと徳川慶喜の墓の前に出ました。

2024.11.05

かなり広い徳川家の墓地の中の左の石を積み上げた丸い石造物の脇に徳川慶喜墓地の標識が立っていました。

2024.11.05

14:05・歴史の大きな波に翻弄された義信の墓に手を合わせます。現在の東京を後世の人達に手渡した最後の将軍、私にはその実像が理解出来ない人です

2024.11.05

14:06・慶喜の墓への道からスカイツリーと谷中の街並みが望まれます。東京の美しい街並みが残された貴重な場所が何時までも生き続けてくれる事を慶喜の墓にもお願いしました。

2024.11.05

さすがに今年の猛暑も10月に入るとその勢いが弱まり土手の上にも秋の気配が感じられました。例年なら草刈りが終わった見晴らしの良い土手一面に彼岸花の群落が見られるのですが今年は未だ草刈りが行われていないようです。それはそれで、生い茂る緑の藪の中に咲く野の花の姿を取り戻した彼岸花の小さな群落が続く土手の風情は私の心を満たしてくれました。見世物の花の姿とは異なる正に”秘すれば花の”奥深い感動を私に与えてくれた秋の一日でした。

2024.11.05 

11/18/2024
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